戦争のこと/「陸つづきの恐怖」第三次世界大戦
先日からのロシアのウクライナ侵攻の報道に、河竹登志夫の随筆集『酒は道づれ』(1983年・南窓社)に収録の「娘と私のウィーン日記」の中のひとつ「陸つづきの恐怖」を思い出しました。もともとは、1979年春にサンケイ新聞に連載したものです。登志夫は1978年9月から翌年3月まで小学生の娘ふたりとウィーンに滞在しており、そのときのことを書いています。
「外地にいるとかえって日本の新聞や雑誌をていねいに読む。数と種類がごく限られているからである。すると、日ごろ情報の氾濫や自分自身のあわただしさにまぎれて忘れ、あるいは麻痺していることにハッと気づくことが、すくなくない。
仮想第三次大戦は、その隣国のひとつである西独の、東独との国境にちかいバート・ヘルスフェルトではじまる。私はこの町を知っているだけに、そくそくと迫る実感にうたれた。
ここをおとずれたのは十四年まえー1965年の夏、五月から半年間ユネスコの派遣で、ソ仏独英愛五か国の夏芝居を見学調査したときである。前年秋に結婚して予定日のちかい妻と、すでに肺癌を発していたー知ったのは後のベルリンでだがー父と、病弱の母をのこしてのひとり旅であった。
そこは有名な温泉地で、私も過労のせいか前にもあとにもかかったことのない結石に見舞われ、なおってから一度湯治をしたことがある。なまぬるい炭酸水に一時間つかり、毛むくじゃらの大男がフワフワともむ、効きそうもない温泉だった。(略)
ところで、その温泉地では古い教会でおこなわれた野外劇ーゲーテの『エグモント』とレッシングの『賢者ナータン』、ウィリアム・ディターレ演出の『真夏の夜の夢』の舞台稽古が印象にのこっているーを見たのだが、一日、化学者だという下宿の主人夫婦がドライブにつれて行ってくれた。そのとき、荒涼たる国境をこの目で見たのである。彼は声をひそめていった。
『あの丘の林のなかに、無数の狙撃兵がこっちをにらんでいるんですよ。何人も死にました。あれをごらんなさい』
指呼の間にせまるその国境線に、黄色地に髑髏と十文字の骨を黒々と描いた札が、音もなく立っていた。
『第三次世界大戦』はおこってはならない。しかしおこるとしたらーその作者がここを発火点にとったのはさすがだと思う。
ウィーンもしかし、大差ない地位にある。この国自体が幅のひろい国境のようなものだ。汽車に乗って三、四時間も行くと、いつのまにか“他国”にはいっている……。
いったん事がおきたらどうなるかは目にみえている。事実つい二十四年前まで十年間、ソ連の占領下にあったのだ。いまここの人々は無気力にみえるほどおだやかで静かだが、それは平和がどんなに大切かが身にしみていて、第三次大戦の恐怖の幻影に目をつぶり、このつかの間の平和のなかにただじっとひたっていたいーとそんな気持なのではないかと私にはおもわれる。
文化文明の交流発達の歴史の裏に、消えることのない陸つづきの恐怖。これがヨーロッパなのだ。外界をきびしく拒絶する厚い石の壁と、かたく冷たい鍵の響きは、その宿命の象徴ともいえるだろう。
海に囲まれた日本はなんとしあわせな国かと、しみじみおもう。海は自然の堀であり、水できずかれた万里の長城だ。だが、その恩恵によるあまりの平和と自由に甘えすぎ、生命の大切さが見失われてはいないだろうか。無法な殺人や少年少女の自殺の記事をこの地で読むたびに、その思いを禁じえなかった。今日明日の生命のわからなかった戦時中には、生きることしかなかったのである。」
昨年11月21日のこのブログに、登志夫がバート・ヘルスフェルトを訪れた際の手帳を出しましたが、その時のことを、1978年の秋に滞在したウィーンで思い返しています。最後に生命の大切さについて書いています。以前登志夫は、大学紛争のことをあげて、「学生たちが、自分たちよりはるかに恵まれない年の近い警官たちに石を投げている」と、どこかに書いていました。兵隊だから殺したり殺されたりしていいということはなく、最高責任者同士が一刻も早く言葉で戦ってほしい、と祈る毎日です。
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