繁俊と国立劇場③戦後/昭和40年から歿年
昭和38年から39年にかけ登志夫は、41年6月に国会で審議される「国立劇場上演候補演目案」のために、上演すべきもの、上演可能な演目全てを一覧表に作り、若い人にも分担してもらい、それぞれについての基礎的な資料を付けて提出しました。当時の事ですから全て手書きで、オリジナルはまだ家のどこかにあるはずです。
昭和40年5月から登志夫はユネスコから派遣されて夏芝居を調査することになり、設立準備室からは国会で審議される「国立劇場法案」の資料として、できるだけ多くの外国の国立劇場の調査をと、依頼されました。委員会は「海外国立劇場調査票」を作って、劇場の組織、観客組織、俳優などの養成、運営経費、収支決算、キャパシティー、入場料等について詳細な調査をしました。
ちょうどその年の10月、11月がベルリンとパリとリスボンでの歌舞伎公演で、文芸顧問として合流するまで、ソ連、フランス、ドイツ、アイルランド、イギリスと半年ばかりかかって単独で回りました。(詳しくは、ブログに記載しました)。各地から報告書を設立準備室の森さん宛に送っています。
ベルリンとパリの歌舞伎公演の間は、後年国立劇場の理事になる藤波隆之さんも協力して調査しました。藤波さんの友人の石母田正氏、川辺正敏氏も通訳の仕事などで力を貸してくれました
この時は東ベルリンまで足を伸ばし、5つの国立劇場と中央舞台美術工場まで精力的に調査することもしています。
藤波さんとの写真です。
誰もが新しい国立劇場の為にと、一生懸命調査などしていることが窺われます。
ベルリンとパリで書き込まれた調査票は藤波隆之、登志夫制作として「演劇学 第31号 河竹登志夫教授退任記念号」に24ページにわたり載っています。
上記の「国立劇場法」「国立劇場上演候補演目案」などの調査のほかに、専属劇団を持たない国立劇場が直面する、松竹株式会社や東宝株式会社などの興行会社との、俳優や伴奏者の借リ方と、その配置計画のルール作りなどが当面の大きな課題でした。そのため、高橋、河竹が国立劇場側の局長などの仲立ちとなり、興行会社や演劇関係者と何度も懇談会を催しています。
昭和40年~繁俊「備忘録」より~
「10月16日 松竹、大谷、香取を主にして」
「11月24日 左団次、団十郎」
「11月25日 東宝の清水社長他森、菊田氏」
「12月3日 田中良、香取仙之助、江口博三、舞踊協会」
12月12、18日は歌舞伎協会設立について、
「左団次、幸四郎、松緑、中車、芝翫、森田勘彌、歌右衛門、三津五郎、仁左衛門、又五郎、梅幸
協会設立はみんな賛成、1月末までに具体案を得ることとする
新派、新国劇との話し合を持つことを決めるなどなど、」
昭和40年5月~繁俊がソ連へ送った、登志夫へのハガキより~
「昨日、北条、金子、関口らの演劇協会側、飯塚、山本、修ニ、林らの学会側にて国立劇場の懇談会を開き無事に済みました。」
と演劇を取り巻く各分野に協力を求めるべく滞りなく懇談に務めています。
6月3日~繁俊「備忘録」~
「教育会館で高橋誠一郎、寺中作雄局長ほか7人参集、昼食、寺中氏を準備会の主幹として、法人になっては理事長、高橋誠一郎氏は会長、予は理事として、という国立劇場の話。寺中氏とは20年来の知己、よき人を得たりと思う。」
同月、~登志夫への手紙より~
「内閣改造と同時に寺中作雄氏が理事長格(国立劇場)と決まった。彼は元もと知ってもいるし、一つ肩の荷を下ろした気持ちだ。」
理事長も決まり肩の荷を下ろした、もうこれで大丈夫、昭和11年から何度も挫折しながら続けてきた国立劇場設立が、今度こそはもう大丈夫という思いだったのでしょう。張りつめていたものが緩んだ気配を感じます。
同年9月~登志夫への手紙より~
「8月中は保護委員会もお休みでした。小生もまぁまぁだ、どうせ老骨だから、寝たり起きたりで過ごしている。安心して芝居を見たり調査すべし。」
実はこの頃、繁俊はだいぶ具合が悪くて高熱や咳で弱っていました。後にわかる肺がんの兆候だったのだと思います。このことを繁俊も家族も登志夫には告げず、登志夫も自分の体の不調を伏せての多難な調査旅行を続けていました。その旅の終わり頃、10月1日ベルリン公演初日の記者会見の前に、繁俊の肺がんの知らせを姉から受けとります。
この写真は、昭和40年11月登志夫が半年ぶりに帰宅して成城の庭で撮影しました。
昭和41年~登志夫著「作者の家」より~
「こけら落としに選ばれた「菅原伝授手習鑑」の監修が最後の仕事となった。補綴演出は加賀山直三。形ばかりの監修など気に入らない父は、何度も加賀山さんの来訪を乞い、病床で打ち合わせをするのが楽しそうだった。」
5月には長年尽力された小宮豊隆氏がなくなりました。
11月1日国立劇場開場。繁俊はもう体力衰え、開場式典などには出席できなかったばかりでなく、亡くなるまで一度も入場することができませんでした。
翌年昭和42年の11月、繁俊が亡くなった直後の毎日新聞の夕刊にこんなことが書いてあります
「わが国初の国立劇場が開場したのはちょうど1年前だった。その時病床に横たわっていた河竹氏は「おめでとう。よかったですね。ご苦労様」と電話をかけてきたと言う。しかし、「ご苦労様」は本当はこちらから河竹先生に申し上げる言葉でした、と電話の応対に出た人は訃報を知って悲しんでいた。(中略)その頃病状はかなり進んでいたようだ。娘婿がお医者さんで「いけません」といってもご本人は「どうしても行く」と言って聞かなかった。こけら落としに上演された「菅原伝授手習鑑」は河竹氏によって選ばれた演目だが、その台本を風呂敷包にして事務所へ届けたのは昭和41年6月。これが公的な最後の外出になった。」
写真は、気分の良い日に邸内の清水を汲みに。
国立劇場開場はどんなにうれしかったことでしょう。その日、永田衡吉さんに、いつか国立劇場のことを本にするから待っていて下さいと言う葉書を出したそうです。
繁俊の胸の中には明治6年以来、100年にわたり国立劇場建設の夢に関わった人々が思い出されていたことでしょう。
当初共に志を立てた、坪内逍遙の教え子たちで作った早稲田演劇協会の人々も大半亡くなり、親友久保田万太郎は38年、小宮豊隆は41年に亡くなりました。一緒に汗を流した人々から託された責任を果たして、劇場を見ずになくなってしまった多くの人々のことを書き残したかったのだと思います。けれどこれは実現しませんでした。
昭和42年
寺中さんが理事長に決まり、肩の荷を下ろした40年冬頃から体力の限界を感じ、やり残した著作に没頭しました。肺がんの転移の度にひどい病状になり、それが一段落すると小康を得たりの繰り返しでした。
写真は、大好きな草花と。庭の野鳥や野菜などが大好きでした。
この頃の事は「作者の家」に詳細に語られていますが、命の限界に挑むような、壮絶とも言える最後の粘り強さで、数冊の本を仕上げています。
11月15日早朝、家族に看取られて亡くなりましたが、眠り続けるような、静かな、痛みも苦しみもない大往生でした。この年の国立劇場11月筋書きの「逍遙と桐一葉」は最後の原稿になりましたが、妻みつと登志夫が口述筆記したものでした。
~「追悼号」寺中作雄氏より~
「河竹先生の国立劇場設立に対する執着は、誰かが昨日や今日漠然と思いついたようなものではなく、戦前の昭和11年以来今日まで、実に筋金入りの信念と生命をかけるほどの情熱によって裏付けされたものであった。(中略)畢生の願望をかけて国立劇場と共に歩み、その準備事務の一切を取り仕切ってこられた先生がついに病床に親しまれるようになり、結局この劇場の華々しい開場も見られず、ロビーの中に1歩の足跡を印されることもなく、ついに幽界の客となられたことについては、なんとしても自らあきらめ切れない悔しさであったことであろう。それを思うと、たまらない気持ちで胸を締め付けられるのである。」
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