切抜帳Ⅳより/「近代日本演劇の足跡」(連載)
こちらは昭和42(1967)年「赤旗」に連載したもの。連載の①④⑤⑩を受け持っています。共同での連載だったようです。翌年が「明治百年」記念ということで企画されたものでした。
1回目が登志夫の担当、「新劇運動への先駆」として川上音二郎の壮士芝居。旗揚げの「板垣君遭難実記」について、
「初演は二十四年二月五日、泉州堺の卯の日座。六月には東京へ乗りこみ、浅草鳥越の中村座で上演した。板垣退助に扮したのは青柳捨三郎で、川上自身は刺客の相原尚褧をやっている。が、なにしろまだ手不足の素人劇団だったから一人で四役ずつ。それも川上が娼妓高尾に、青柳も娼妓今紫というのを兼ねているのだから、すごい。(略)板垣と相原、警官いり乱れての立回りなど、倒れたり投げられたりするたびにドシンゴツンとすさまじい音で、役者たちは『目から火が出るべき』壮絶さだったと、劇評にもしるされている」。
面白いエピソードです。
登志夫の受け持ちの二回目は「新時代の女優の誕生」として、松井須磨子のことを。イプセンが死んだ明治39年頃から日本でも自然主義運動が絶頂になるとともに、イプセンの人気も高まったそうで、作品のテーマの新しさとともに、女方でもなく、それまで貞奴のような元芸者でもない女優の誕生として意義が大きいと、明治44(1911)年111月の文芸協会の第二回公演「人形の家」を取り上げています。ちなみに、同年5月の第一回公演『ハムレット』には繁俊が小さな役で出演しましたが、この頃はもう、繁俊は文芸協会から出て、河竹家に入っていました。
登志夫受け持ち3回目は「庶民の気分も反映」という見出しで大正3(1914)年のトルストイ『復活』を取り上げます。
「『カチューシャかわいや、別れのつらさ、せめて淡雪とけぬまに……』日本全国はもちろん遠くウラジオストクまでも喧伝され、一世を風靡したこの歌は、いうまでもなく松井須磨子がトルストイ『復活』の舞台からうたったものである」。
島村抱月とともに文芸協会を出て芸術座を結成した翌年のこの作品上演での中山晋平のこの曲が大ヒットしました。中山晋平のことは登志夫はよく色々なところに書きました。当時、どんな小さい路地からも、この唄がきこえたものだと、登志夫の母みつも語っていたとも。
「たちまちオリエント社は二万枚を売りつくしたという。大正年代は、芝居から映画へ、演歌からレコードの流行歌へと、機械的再生芸能(つまり『マスコミ』)への一大過渡期だと私は思うのだが、須磨子のカチューシャはじつにその口火を切ったといえる。まもなく日活が三千フィートという当時最長尺の映画『カチューシャ』を製作、これも大当たりだったそうだ」。
「島村抱月のあとを追った須磨子の自殺により芸術座がつぶれたのは大正8年だが、偶然同じ年に左團次と小山内の自由劇場も消滅している。ここで新劇運動の第一期は終ったといっていい。そしてそのあと、大正13年の築地小劇場創立前後までの大正後期は、むしろ歌舞伎畑の新人たちの新劇活動がさかんだった。菊五郎・吉右衛門はじめ先代守田勘彌の文芸座、先代猿之助(猿翁)の春秋座…等。
この春秋座の第一回試演にえらばれ、そして当時無名の菊池寛の名を一躍天下にとどろかせたのが、この『父帰る』だった。このころは、後に小説家として大成する谷崎潤一郎、山本有三、久米正雄、久保田万太郎、吉井勇、などがぞくぞく戯曲を書いたので、大正戯曲時代などといわれる。『父帰る』はそのなかでの最高作の一つといっていい」。
『父帰る』は出演者5人、時間も30分足らずということ。タイトルは有名ですが、見たことがありません。きっと現代に見たら、このへんの時代のものはリアルなだけ、かえって古臭いばかりに感じられるのかもしれません。かえって、歌舞伎の古典を歌舞伎として見るほうが、違和感なく受け入れられるように思います。
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