繁俊と国立劇場②戦後/昭和22年~39年

さて、時代は戦後に移ります。

昭和22年、~登志夫著「作者の家」による~

「先の建議の時に熱心に賛成した片山哲が首相となった。片山はラジオの施政方針演説の中で、国立劇場の実現を力説した。中村吉蔵はすでになかったので、父が中心になって再び文部省や、GHQとの打ち合わせが始まった。」
~繁俊著「文化史話」より~
「私は10年前の懇談会を思い浮かべ、片山氏の記憶の中にあったことに大きな感銘を覚えた。そこでぜひ実現してほしいと要望した書面を、首相官邸でのある委員会の折、守衛に渡して伝達を請うた。すると数日後に片山氏から手紙が来て至急逢いたいとあったので、山本久三郎とともに出かけていった。と、それと前後して帝劇の田村道美氏や、東宝の森岩雄氏の来訪もあり、藤原義江、土方与志も加わって何回か懇談会を開き、社会党の溜島代議士も参加して草案を作ったのであったが、翌年の2月片山内閣は総辞職となり、せっかくの思いたちも水泡に帰した。片山氏も一夕われわれをねぎらって、共に遺憾の意を表明された。」
森岩雄氏がこの頃のことを「追悼号」に書いています。
「片山哲さんは理想家だし、真面目にそうお考えになっていた事は、河竹先生や有志の諸君とともに総理官邸でお目にかかった時、強く感じられた。そこで私たちは一生懸命にその内容や希望について検討会を開いた。その当時は左翼の勢力が特に厳しい折であったので、イデオロギー的演劇論が横行し、歌舞伎や新派関係の方がたは恐ろしがって寄り付かない有様であった。河竹先生はそのような演劇人同士の不仲のためにせっかくの計画が停滞するようなことがあってはならないと、いたく心痛され、そのことでわざわざ拙宅までおいでになり、ご相談になられたことがあった。しかし、この案はまとまりかけた時に、突然、片山内閣が退陣してしまったので、とうとう結実することができなかったが、これがやはり1つの土台となって、今日の国立劇場ができるきっかけになったということができよう。」
昭和25年、前年に新しくできた文化財保護委員会が国立劇場の設置案を初仕事として取り上げることになり、繁俊が文部省に予算要求案を持ち、説明に行きます。当時その予算要求案を受け取った、文部省の会計課長だった、寺中作雄氏(国立劇場初代理事長)が「追悼号」に以下のように寄せています。
「突然のご来訪だったが、先生は口辺に例の上品な微笑を讃えながら『寺中さんは文化人だからわかっていただけると思って説明に参りましたよ』と静かに口を切られた。『寺中さん、頼みましたよ。ぜひ実現してくださいよ。あなたならきっとものにしてくださると思いますから』と何度も念を押して帰っていかれた姿が今も瞼の裏にあるが、戦後日が浅く、大蔵省あたりの感覚でぜいたくな構想などと一顧も与えられず、空中の霧と化して跡形なく消されてしまった。」
昭和27年4月。三水会、ともに趣意書をつくった池田大伍氏を偲ぶ会。後列右から6人目が繁俊、左端に登志夫も。
昭和29年5月、文化財保護法が改正されて、国家の仕事として国立劇場に初めて着手されます。
昭和30年、文化財保護委員会が、芸能施設調査研究協議会を設けて検討を始めました。しかしここから着工までにほぼ9年を費やします。
昭和31年3月、大正10年に労を取った鳩山一郎の内閣になり、官房長官根本龍太郎氏、文部政務次官の武生弌氏らの格別の協力により閣議の決定を見、国立劇場設立準備費として1700万円が計上されました。時の文化財保護委員長は高橋誠一郎氏。
根本龍太郎氏他との会合。右から3人目が繁俊。左には登志夫。下は、この頃の繁俊近影。


同年7月6日からは国立劇場設立準備協議会が小宮豊隆を会長として、久保田万太郎、河竹繁俊を副会長として発足し、諮問事項について基本構想の答申を行うために議論をかさねます。青写真作りでした。
昭和32年

~繁俊の「備忘録」よる~

「2月9日、小宮、久保田、河竹、林彦三郎(三信ビルの社長)、宮沢喜一(参議員)、文化財局長、次長、課長、等と敷地の件にて会談する。が、紛糾し、筋を明らかにしようということになリ、時々開催することにする。」
~繁俊著「文化史話」による~
「敷地としては国有地と考えるほかないので、敷地問題では再三難関に逢着した。日比谷公園、帝劇買収、三宅坂のパレス・ハイツ、赤坂の大宮御所の一部など候補にのぼったが、結局パレス・ハイツと確定したのであった。」(結局数十回の議論をすることになり、決着がついたのは39年でした。) 
〜備忘録より〜
6月「川崎秀二、竹尾弌氏等提唱による国立劇場建設議員連盟準備会が開かれた。
文化財保護委員長、事務局長、小宮、久保田、河竹、国会議員数名、文教委員長、文部次官ら12 、3名で申し合わせをする。」
11月「国立劇場設立促進国会議員懇談会が持たれ、内外相呼応して促進されるようになった。」
昭和33年

~備忘録より〜

1月「昨年は「日本演劇全史」完稿のため少なからず無理をし、ことに9、10、11月の3カ月間は自分ながら三面六臂の働きをせし故か、疲労困憊の極に達せしものか、脳血管の麻痺、めまい、立くらみを覚え、脳溢血の一歩手前、地獄の3丁目まで行きし感あり」。
2月「第5回目の発作あり8月まで静養を余儀なくされる」。
療養や投薬の細かい記録の後に、
10月6日「教育テレビと総合テレビとに掛け持ちにて出演したがどうやら無難に通過した。」とあり、前年末からの再起が危ぶまれた病気であったが、無事回復に向かいました。
昭和35年、早稲田を定年退職、学士院賞受賞、古希の祝いなど赤坂プリンスホテルにて開かれ、この頃繁俊は健康を取り戻しています。
「はん居」にて慰労会。前列左から繁俊、武原はん、久保田万太郎、谷崎精一。写真の裏には「皆皆上機嫌なりき」と書かれている。
昭和36年6月
建築基準上の特別許可について、東京都の内諾を得る。
昭和37年1月
建設省に国立劇場設計協議審議会がつくられる。
~「備忘録」より~
1月「東京会館にて。小宮氏休み、久保田氏挨拶、繁俊進行係、阿部真之介、小汀利得、加藤成三、花柳、高橋歳雄、吉田五十八、委員長ら各界の人々との懇談会。」
7月「国立劇場の懸賞募集審査会の1人に加わる。」
昭和38年
3月、一等当選案決定。
4月「胃潰瘍で日本医大に4ヶ月入院。」
5月「久保田万太郎死去。」
10月、病後登志夫と初めて外出したときの写真。
昭和39年、4月5日東京の各新聞に発表されます。
「6月に着工の見通し。国立劇場 細部の設計すすむ。
東京千代田区のパレス・ハイツ後に建設される国立劇場は細部の設計も進み、6月には着工できる見通しに。建設を担当する文化財保護委員会は、4日、その大要を発表しました。大要は以下の通り。
「国立劇場が必要だという世論に、保護委員が芸術施設調査研究協議会を設けて検討を始めたのは30年7月。着工までにほぼ9年かかり、劇場の性格をめぐって種々の議論はあったが、36年始め、古典中心の劇場にするという基本方針が決まる。建設設計案は公募され、昨年3月、307点の中から竹中工務店、岩本博行氏のグループの案が当選、実施設計を進めてきた。
劇場の事業内容は①古典芸能の公開②その伝承者の養成と専門教育③芸能に関する資料収集、保存、展観④芸能に関する調査、研究、考証や記録の作成となっている。
東西約96メートル、南北約100メートルのほぼ真四角の建物で、地上3階、地下1階、延べ面積2万4900平方メートル。ほとんど窓がなく外壁はコンクリートで、上代建築の校倉様式を表現、白い色に塗られる。
1750席の大ホールと650席の小ホールがあり、大ホールの舞台は間口22.4メートル奥行き27メートルで、広さの点では日本一となる。
2階に演劇、舞踊、音楽のけいこ室や講義室が、3階には資料展示室や図書室、録音室、試写室が設けられる。総工費は約35億円で、41年春には工事を終わり、開場の予定という。」
同年6月、繁俊、文化財保護委員になる。
~「追悼号」森晋六氏(国立劇場事業部長)より~
「文化財保護委員になられて、先生は毎週1回定例委員会(国立劇場の設立準備室)に出席されるようになった。その前年大病をされたこともあり、果たして委員にご就任願えるかどうかお見舞いがてらご様子を拝見に成城のお宅に伺った時、何かやつれられているのは隠せなかった。しかし登庁される頃には見違えるほどお顔色も良くなり、温容に接して私たちは国立劇場のために百万人の力を得たような心強さを覚えた。暑い日も寒い日もほとんど欠かさず委員会に出席され、終わると私たちの部屋に寄られ、劇場の準備状況やお気づきのことを細細と話されて行くのが習わしであった。
その頃先生の提案で劇場のことをこころおきなく懇談する会を持とうと言うことになり、数人の専門家や介添えを兼ねて登志夫さんなどが月に1、2回教育会館に集まることになった。劇場運営の具体策、自主公演の理念、方針、講演の計画等について図った。歌舞伎や文楽のレパートリーの草案もここで検討された。進行役を務められた先生は、巧みに全員の意見を引き出し、それをまとめてくださるのであった。懇談は4、5時間に及んだこともあり、建設準備の推進に大いに成果を上げ、この懇談会で練られた種々の構想や具体案が骨子となって、その後の準備が進められていった。先生はこの会を非常に楽しみにしておられたようで、異常なほどの熱心さで1年余の間1度も欠席されることがなかった。」
同年8月8日、国立劇場起工式。

昭和40年4月、国立設立準備会および国立劇場設立準備室の設置。

~「追悼号」利倉幸一氏~
「この小委員会は一年余りも続いたが、僕はいつも河竹先生がいられるからこそと言う思いを持っていた。先生は座長を務められていたが、根幹的なもの、基礎的なものはそこでの検討がものを言っていると僕は思っている。ある時河竹先生がきつい調子で発言されたことがあった。それは大事なことであり、官庁側にやや気合の乗っていない時であった。官庁側の委員も驚いたが、僕も驚いた。先生にこんなきついところがあろうとはちょっと考えられなかった。途端に座はしらけたが、その後に先生が声を大きくされただけの効果はあった。歌舞伎のために…。先生のその一途な熱意がそんな形になったのだった。あの温容しか知らない者には信じられないような毅然とした態度であった。僕はその時からまた先生への敬愛の念を強めた。」
~寺中氏も「追悼号」で~
「(略)足取りも弱々しい痩身を都度つど劇場の建築現場にも運ばれた。岩本博行氏自慢のあぜくら造りの前壁が半ば出来上がっていた時だったが、先生はかねてから胸にあったことを思い余って言い出されたような調子で、建築上の希望を持ち出されたのである。この建物は宮城の堀の緑を目前に望んで、都内でも有数の景勝地に立っているはずなのに、2階の壁がふさがっていて全然前の景色が見られないのはなんとしても惜しいことだ。ぜひとも2階の前面に窓を作って、景色が見えるようにするべきではないかと言うことなのである(略)
そういえば劇場の外観としても正面に一個の窓もない建物と言うのはいかにも閉鎖的でまるで獄舎のような暗い印象を与え、華やかなるべき演劇の伝統としては、再考の余地があるようにも思われた。だが改造を言い出す時期としては実はいささか遅きに失した感があり(略)ほとんど不可能と言うところまで来ていた。結局技術者たちの壁に隔てられていかんともならず、先生の主張は虚しく葬り去られてしまった。先生はこの問題を最後まで諦めきれず、この点についていつまでも悔しそうな表情を変えられなかった。」

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)