繁俊と国立劇場①戦前

前回、登志夫の切抜帳から、開場のときの登志夫の寄稿を上げましたが、国立劇場にもっとかかわったのは繁俊でした。昭和42年に亡くなった繁俊が、自身の著作とは別に、最晩年に最も力を注いだのがこの劇場でした。

国立劇場と繁俊との関係については登志夫も「作者の家」で書いていますので引用します。
戦後の繁俊の仕事で特筆すべきことの3つが、歌舞伎座での子供歌舞伎の解説を長く務めたこと、進駐軍の歌舞伎取締への陳情嘆願、そして国立劇場建設、と整理しています。
「国立劇場建設の萌芽は明治6年、12世守田勘弥が西園寺公望あたりから西洋諸国の国立劇場のことを聞いて、建設の夢を抱いたことがあった。
演劇改良運動が盛んになる明治11年に、勘弥が新富座に洋風を取り入れて新築し、陸海軍軍楽隊の吹奏で式典の幕を開け、黙阿弥までが燕尾服で参列したのもその一環と言える。
この頃フランス帰りの光明寺三郎が、勘弥に将来はきっと帝室保護の劇場ができる、お前はその劇場長になるつもりで大いに努力せよ、と励ましたこともあった。
その延長線上に、19年に組織された官憲学者財界人による演劇改良会では、25万円の予算で英人コンドルに設計を依頼するところまで行った。これは第一次伊藤内閣退陣とともに立ち消えになった。
が、そのビジョンはしかし今日の国立劇場とは違い、趣意書に「演劇のみならず音楽会、歌唱会などの用に供すべき」とあるように、パリのオペラ座を模範とする洋式劇場の建築だったのである。
明治44年になる帝国劇場は、その夢を民間の手で実現したものに他ならないと、私は考えている。」

繁俊は大正9年から12年の震災で帝国劇場が焼失するまで、この帝国劇場の文芸部に勤めていました。こちらは、昭和6年3月4日、帝劇20周年のときの「午餐会」の記念写真。渋沢栄一子爵が真ん中。繁俊は、後列の左から9人目。写っている人の名前は下に書いてあります。繁俊は「元技芸学校主事」として出席しています。

年を追って、国立劇場の建設までを資料を基に書いていきます。

大正10年、~繁俊著「日本演劇文化史話」(昭和39年11月新樹社刊)による~

「鳩山一郎によって国立劇場設立の議が提唱された。この経緯は、松本克平によって明らかにされたが、(「新劇」39年8月号)提唱は浅草の歌劇俳優の笹本甲午の発想であったと言う。甲午は逍遙の主催した文芸協会にもいたこともあるが、歌劇俳優になってから感ずるところがあって、営利を目的としない国立劇場の建設を思いついた。そして同郷出身の政治家小笠原長幹に相談したところ、それは賛成だと言うので、大正10年の初めから彼自身が起案し、それを自らタイプに打って両院の議員に発送したらしい。そして貴族院では柳原義光が、衆議院では鳩山一郎が紹介説明を務めてくれることになった。大正10年鳩山一郎によって国立劇場設立の議が提唱され、帝国劇場の専務取締役山本久三郎、近藤経一らによって論議された。ところが当の甲午がその年の8月、脳脊髄膜炎で急逝してまった。そうして請願書の内容も全くわからなくなってしまったのだそうだ。」


昭和11年、~「演劇学 第9号 河竹繁俊博士追悼号」に永田衡吉氏が寄せた文によると~

「(逍遙が昭和10年に亡くなり)中村吉蔵先生を会長として早稲田演劇協会が演博の逍遙記念室で誕生した。この会の創立が、逍遙、抱月事件以来とかく、ちぐはぐな気持ちだった早稲田劇壇人を、演博と言う建物の中でいちど集めてみてはと言う心持ちが中村、池田大伍、河竹三先生の胸の中に去来したのが動機といえよう。理事6人、幹事は英文科の若手の先生白石靖くんにお願いした。」

~繁俊著「日本演劇文化史話」より~
「当時早稲田演劇協会会長であった中村吉蔵博士が、大日本俳優協会会長の中村歌右衛門や岡本綺堂、池田大伍、永田衡吉に私なども加わって「国立劇場建設趣意書」を作り、国会に建議案を提出することになった。この趣意書は43ページの冊子であったが、フランス(川島順平)、ドイツ(杉野橘太郎)、ロシア(八住利雄)、英国(日高只一)、アメリカ(山口太郎)などが外国における国立劇場のことを載せた。印刷費二百円は当時としては大金であったが、新国劇の兵藤丈夫君に御用金として出したもらったものである。」(この趣意書は「日本演劇文化史話」に掲載されています。)
写真は、昭和11年の会合で。右より永田衡吉、渥美清太郎、?、白石靖、中村吉蔵、坪内士行、繁俊。

 昭和11年11月、国立劇場問題打ち合わせ会、永楽クラブにて。右より繁俊、中村、猿之助、三升、池田大伍、後ろ、白石、永田。
~繁俊著「文化史話」より~
「この建議案提出に先立って、東京会館に於いて懇談会が開かれた。主催者側のほか永井柳太郎、内ガ崎作三郎、安藤正純、牧野良三、犬飼健、片山哲ら各派の代議士も参集し、それぞれ賛成の熱弁をふるった。この時岡本綺堂は、出席はするが意見は付け加える事は無いから、別に述べませんよとことわりがあったのだが、議論が白熱するに及んで、顔面を紅潮させて立ち上がり、賛成ではあるが御用演劇になっては困ると大いに陳弁したのは愉快であった。」
昭和12年6月
「中村吉蔵と同窓だった永井柳太郎を仲立ちとして国立劇場建設を政府に建白し、超党派満場一致で可決した。これが日本で国立劇場の設立が可決された最初だった。しかし翌7月、日華事変(日中戦争)が起こったため中断されてしまった。」
昭和12年、繁俊は49歳、演劇博物館館長在任のまま、早稲田大学教授に。


昭和12年2月、大隈会館にて。繁俊と、大日本俳優協会会長五世歌右衛門と、六世歌右衛門(当時芝翫)。国立劇場建設に熱心に賛同していました。

このあとは、「繁俊と国立劇場②戦後」に続きます。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)