繁俊と国立劇場①戦前
前回、登志夫の切抜帳から、開場のときの登志夫の寄稿を上げましたが、国立劇場にもっとかかわったのは繁俊でした。昭和42年に亡くなった繁俊が、自身の著作とは別に、最晩年に最も力を注いだのがこの劇場でした。
繁俊は大正9年から12年の震災で帝国劇場が焼失するまで、この帝国劇場の文芸部に勤めていました。こちらは、昭和6年3月4日、帝劇20周年のときの「午餐会」の記念写真。渋沢栄一子爵が真ん中。繁俊は、後列の左から9人目。写っている人の名前は下に書いてあります。繁俊は「元技芸学校主事」として出席しています。
年を追って、国立劇場の建設までを資料を基に書いていきます。
大正10年、~繁俊著「日本演劇文化史話」(昭和39年11月新樹社刊)による~
「鳩山一郎によって国立劇場設立の議が提唱された。この経緯は、松本克平によって明らかにされたが、(「新劇」39年8月号)提唱は浅草の歌劇俳優の笹本甲午の発想であったと言う。甲午は逍遙の主催した文芸協会にもいたこともあるが、歌劇俳優になってから感ずるところがあって、営利を目的としない国立劇場の建設を思いついた。そして同郷出身の政治家小笠原長幹に相談したところ、それは賛成だと言うので、大正10年の初めから彼自身が起案し、それを自らタイプに打って両院の議員に発送したらしい。そして貴族院では柳原義光が、衆議院では鳩山一郎が紹介説明を務めてくれることになった。大正10年鳩山一郎によって国立劇場設立の議が提唱され、帝国劇場の専務取締役山本久三郎、近藤経一らによって論議された。ところが当の甲午がその年の8月、脳脊髄膜炎で急逝してまった。そうして請願書の内容も全くわからなくなってしまったのだそうだ。」
「(逍遙が昭和10年に亡くなり)中村吉蔵先生を会長として早稲田演劇協会が演博の逍遙記念室で誕生した。この会の創立が、逍遙、抱月事件以来とかく、ちぐはぐな気持ちだった早稲田劇壇人を、演博と言う建物の中でいちど集めてみてはと言う心持ちが中村、池田大伍、河竹三先生の胸の中に去来したのが動機といえよう。理事6人、幹事は英文科の若手の先生白石靖くんにお願いした。」
昭和12年2月、大隈会館にて。繁俊と、大日本俳優協会会長五世歌右衛門と、六世歌右衛門(当時芝翫)。国立劇場建設に熱心に賛同していました。
このあとは、「繁俊と国立劇場②戦後」に続きます。
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