切抜帳Ⅳより/報知新聞「夜の世界地図」

アメリカ、ソ連、ヨーロッパを旅してきた体験を生かして、本業以外のテーマで1967(昭和42)年に5回連載で報知新聞に書いた「夜の世界地図」。登志夫の大好きな夜の街や、そこで暮らす人々や風俗について楽しそうに書きました。ボストン「安酒と裸ダンス」、モスクワ「墓場で恋を語る」、ハバロフスク「いつも健康で安全」、ミュンヘン「姫君登場、12PM」、リスボン「享楽にふける民衆」。登志夫は、本業以外のテーマでの仕事は気楽で何の苦でもない、とよく言っていました。たとえば、趣味の料理だったり、絵だったり、エッセイだったり…。旅のこともそのひとつで、登志夫の酒好きは、結果的に、その土地での人脈作りに役立ったり、随筆のネタにもなったり、ずいぶん登志夫の人生を豊かに彩ることになったと思います。著書に「酒は道づれ」と名付けるくらいで、死ぬまで酒とは縁が切れませんでした。

7月4日掲載の第一回目はボストン。ハーバード大学に留学していた時に同じアパートの運転手に色々な遊び場に連れて行ってもらったようです。登志夫は、遊園地に行っても危ないからとジェットコースターにも子供を乗せないほどの慎重さがありましたが、酒場に関しては怪しければ怪しいほど、好奇心をかきたてられたようで、ちょっとびっくりするような場末のやばい感じの店にも入る大胆さでした。ボストンにもいくらでも高級で上品な店があったでしょうが、色々な事情で安く裸ダンスが見られるのが面白かったのでしょう。。

翌週はモスクワ。最後の方、時々ホテルに単身宿泊の男に、美女を連想させる英語で電話がかかってくることがあるそうだが、自分にはその誘惑電話はかかってこず、残念だと書いています。今なら、妻子持ちの早大教授が書く内容か!とネットで炎上しますね。

翌週はハバロフスク。ここでは、初のソ連歌舞伎公演に同行したときの、先代猿翁さんたち一行と訪れた日本人捕虜の墓の件や、團子(いまの猿翁さん)たちや仲間と夜な夜な遊んだときのできごとを書いています。

その翌週はミュンヘン。十月祭の賑わいと、後半は、娼婦の街をうろついたことが書いてあります。この町を紹介してくれた「町に明るい人」のことも、登志夫の手帳にありましたし、ここに書いてある通り、町を見に行ってそのまま戻ったと書いてありました(笑)。

最後はリスボン。ここでも商売の女性と出会える店を紹介していますね。登志夫はものを書くときは、「1.締切りを守る。2.原稿の量(文字数)を守る。3.注文通りに書く。」この三つが大事だと言っていました。これは、報知新聞の注文だったのでしょう(笑)。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)