切抜帳5より/歌舞伎座、国立劇場プログラム寄稿

切抜帳の中にはたくさんの劇場公演プログラムへの寄稿があります。登志夫は原稿を頼まれた時、三つのことを守るのが大事だと言っていました。

①文字数②締切り③注文どおりに書く。これがプロとしての心得でした。当たり前のようですが、この三つをひとつも守れない書き手が多いことは、出版物を作る仕事をすると、ずいぶん思い当たります。忙しいから締切りに間に合わないのではなく、忙しいからこそ、先に先に済ませていく、というのが登志夫のやり方でした。この切抜帳5にある歌舞伎座と国立劇場への寄稿をご紹介します。

昭和42(1967)年の国立劇場。『曽我綉侠御所染』の通し上演でした。蚫田村地蔵堂〜名取川〜北上川の辺り長福寺門前〜岩手山々中〜岩手山谷底〜時鳥の部屋及び奥庭〜五条坂仲之町立花屋〜五条坂仲之町立花屋奥座敷庭前〜五条坂仲之町甲屋〜五条坂仲之町甲屋奥座敷〜廓内夜更け〜五郎蔵内〜若宮八幡祭礼仇討という普段はやらない場を国立劇場ならではの通しで、勘彌が御所五郎蔵など3役、延若の土右衛門、皐月を雀右衛門、そして時鳥を若き玉三郎が演じています。

「黙阿弥と草双紙の作家たち」というタイトルで書いているのは、黙阿弥と柳下亭種員との付き合いから生まれた黙阿弥作品について。

幕末の有名な大富豪でお大尽の津藤香以は、黙阿弥、種員、円朝、魯文、如皐などと遊び仲間でした。「黙阿弥以前には、この種の(当時の小説・双紙ものの)劇化はきわめてすくなかった。小説読み物の作者と芝居の作者とは、大衆の人気を二分するものだっただけに、排他性、対抗意識がつよく、たがいに見識を誇って交流をこのまなかったためだろう。」「二人はよほど肝胆相照らしたとみえ、嘉永5年7月、種員作の合巻『児雷也豪傑譚』を黙阿弥が河原崎座に書き下ろすということになった。しかもこれは、人気絶頂にあった八代目團十郎が扮して大当たり。それがまた、たちまち原作である合巻物の『児雷也』の売れ行きを激増せしめたのである。これが機縁となって、黙阿弥はつづいて種員の作をとりあげ、『しらぬい譚』前後篇を脚色、これまた好評を得ている。

『御所五郎蔵』は、その種員の師にあたる柳亭種彦の草双紙『浅間嶽面影草紙』を典拠とした芝居だが、作の系譜の上では、種員が『児雷也』でひらいたこの小説劇化ものの延長線上に、ややおくれて登場したのであった。ともあれ、私は、小説脚色をめぐって、黙阿弥と種員の関係におよび、津藤たちと遊んだ興笑連、粋狂連などの生活ぶりを思うとき、近代百年の隔たりをこえて、再び返らぬ幕末の江戸が、忽然と身辺によみがえってくるような幻覚におそわれるのである。」

登志夫は上の文の最後で、「黙阿弥や種員や津藤が遊んだ粋狂連の生活ぶりを思うと、再び返らぬ幕末の江戸が、忽然とよみがえる」と書いていますが、これをいつも「再び帰らぬ江戸の夢」と思っていました。登志夫の夢は津藤のような大店の若旦那でした。日毎夜ごと一流の芸術家たちと遊び、詩歌管弦絵画芝居など、創作にも加わり、八百善や平清での芸者遊びや居続けの遊郭、お金を湯水のように使っても、絶対になくならない(津藤は後に落ちぶれましたが)若旦那として生まれることでした。
震災直後に虚弱児で生まれ、金融恐慌、日中戦争、第二次世界大戦、戦後の窮乏の暗い時代に、質素な家庭で育てば、江戸の夢は美しい柔らかな見果てぬ夢だったでしょう。
公には書き残しませんでしたが、妻良子にはそんなことを語っていました。
上は、粋狂連などの三題噺の会の様子(文久3年頃)。下は1962年37歳の夏、上野本牧亭にて「四谷怪談」の夕。気分は幕末?

こちらは、翌年・昭和43年4月の歌舞伎座筋書。1868年の明治維新から100年にあたり、「明治百年記念春の顔揃大歌舞伎」という興行タイトルがついた公演でした。歌舞伎だけでなく、世の中このテーマで色々な事業が行われた年でもありました。登志夫が得意とする明治維新と歌舞伎との関係を中心に書いています。黙阿弥の作者としての受難、その死による江戸狂言作者の終焉、その十年後には團菊が去り、江戸役者の終焉、明治末~大正期の松竹の台頭、新劇運動、昭和のプロレタリア運動、終戦、占領軍による歌舞伎の規制と解除、そして国立劇場開場、海外公演について…。見開き2頁の中に、無駄なく的確に書かれていると思います。

こちらは同年11月の歌舞伎座。やはり明治百年記念の顔見世です。「海外で絶讃された『忠臣蔵』」というタイトル。『仮名手本忠臣蔵』の通し上演をしています。松緑の由良之助、歌右衛門のおかる、勘三郎の勘平、梅幸の判官、三津五郎の師直…。昭和のスターの競演でした。

登志夫は、8年前のアメリカ公演でどれだけ『忠臣蔵』が喜ばれたかを、自分で見た客席の反応や、アンケート結果を踏まえて書いています。

「たしかにはじめは『ハラキリ』の興味で見に来た人もあっただろう。だが、大序から喧嘩場を経過する劇的過程のなかでは彼らは完全にドラマのなかに引きこまれ、切腹の場にいたったときには、単なる異国の見世物的関心ではなく、判官という一人の人間の、のっぴきならぬ制度下における厳粛な悲劇のクライマックスとして、その局面をとらえたのである。徳川時代の日本という、政治的にも、社会的にも、風俗的にも特殊な時代の産物ではあるが、『忠臣蔵』には、その特殊性をこえて、いかなる時代いかなる国の人にも通じる、普遍的な人間がえがかれているということーそこにこの作品の高さ、大きさがあるといえるであろう」と、人気の秘密を分析しています。

こちらは明けて昭和44年の1月歌舞伎座。タイトルは、「初春の芝居」。この紙面の感じをみると、きっと他に大勢の寄稿者が初春芝居として好きな芝居のことなどをエッセイ風に書いて並べてあるのではないでしょうか。当月の演目には関係なく、芝居年中行事としての初春芝居の雰囲気について書いています。「こんな平均化された、せわしなく味気ない世であればあるほど、せめて歌舞伎の世界でなりと、一夕、吉例の初夢を見たいものである。」と最後はちょっとぼやきめいて、江戸の若旦那の世界を夢見ます。

こちらは同年4月歌舞伎座です。

切抜帳5には、他にも劇団民芸、プーク、前進座、四季、笑群、よつみ、近代座、青年座などなど、大小問わず、色々な劇団のプログラムや会報に寄せた文章も貼り付けてあります。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)