切抜帳Ⅳより/文藝春秋の「同級生交歓」 登志夫 繁俊

文藝春秋の名物コーナー「同級生交歓」にはこの時のほかにも登場したと思いますが、これが初登場です。四人は成城高校の同級生で、そろって東大に進んでいます。

このときは皆、42歳。Wikipediaによると、小尾さんは登志夫の翌年89歳で、老衰で亡くなられたとか。暉峻さんは97歳でご健在、安部さんは1993年に68歳で亡くなっています。いまどきはもう、大正生まれも本当に珍しくなってきてしまいましたね。

こちらは、登志夫が持っていた阿部公房氏の処女作初版です。昭和23年の発行です。友人達でカンパの意味で買ったとか。

そして、こちらは繁俊の同級生交歓の写真です。昭和35年2月16日号の文藝春秋に掲載されました。このコーナー、昭和32年から続いているそうです。
左から、繁俊、吉田幸三郎、山田隆也、加藤精一。早稲田で逍遙の門下だった4人です。
ネット「コトバンク」で、それぞれ検索してみました。

吉田幸三郎
昭和期の文化財保存・保護者
生年明治20(1887)年
没年昭和55(1980)年3月2日
出生地東京
学歴早稲田大学文学部英文学科中退
主な受賞名〔年〕菊池寛賞〔昭和36年〕
経歴坪内逍遙に師事。私財を投じて演劇・美術・伝統音楽など有形無形の文化財の保存、保護に尽した。昭和42年秋の叙勲を断ったことは有名。

山田隆也
明治〜昭和期の俳優
生年明治23(1890)年7月31日
没年昭和53(1978)年6月8日
出身地埼玉県比企郡唐子村
本名横川 唯治
別名前名=山田 隆弥(ヤマダ タカヤ)
学歴〔年〕早稲田大学文科〔明治44年〕卒
経歴文芸協会演劇研究所の一期研究生として卒業後は文芸協会へ。大正2年解散後は舞台協会を創立。10年帝国劇場で上演した「出家とその弟子」に唯円役で出演。好評を博し全国主要都市で上演され、相手役の岡田嘉子との間にロマンスも生まれた。翌年日活向島と舞台協会の提携映画「髑髏の舞」で岡田と共演。愛欲の心理描写が話題となりこれを期に日活は女優採用の方向に動いた。日活と提携映画を6本作った後、14年舞台協会解散。同志座に加わり、東亜キネマとの提携映画「敵と女敵」に主演。昭和2年天台宗の宗教映画に主演後引退。11年宗教家・西田天香の一燈園に入り、のち理事となった。

加藤精一
職業俳優
生年月日明治22年 4月11日
出生地岡山県 高梁
学歴早稲田大学英文科〔明治44年〕卒
経歴在学中坪内逍遙に師事し、明治42年逍遙の文芸協会演劇研究所1期生となる。44年帝国劇場での第1回公演「ハムレット」で初舞台を踏み、大正2年協会解散後、舞台協会、新文芸協会、ついで13年同志座、昭和8年森英治郎と新春座を各創立し、舞台で活躍。映画には、大正14年「潮」に主演して以来、昭和4年「大尉の娘」に水谷八重子と主演。11年新興キネマ大泉撮影所に入り、「愛怨峡」などに出演。戦後は病に倒れたため、時折りテレビに出演した。
没年月日昭和38年 8月28日 (1963年)
家族妻=三井 光子(女優),長女=加藤 道子(女優)

河竹繁俊(1889―1967)
演劇研究家。文学博士。長野県飯田の生まれ。旧姓市村。1911年(明治44)早稲田(わせだ)大学英文科卒業。同時に坪内逍遙(しょうよう)主宰の文芸協会演劇研究所を修了して同協会の新劇運動に参加。同年逍遙の斡旋(あっせん)で河竹黙阿弥(もくあみ)の長女糸(いと)の養嗣子(ようしし)となる。20年(大正9)帝国劇場に入り技芸学校主事。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立に尽力し、28年(昭和3)開館後副館長、のち館長となる。また早稲田大学教授として演劇史ほかを講じ、46年(昭和21)芸術学専攻科(演劇科)設置とともにその主任となる。60年『日本演劇全史』で学士院賞受賞。62年芸術院会員、67年文化功労者となる。おもな編著に『河竹黙阿弥』、『坪内逍遙』(共著)、『歌舞伎(かぶき)作者の研究』、『歌舞伎史の研究』、『演劇百科大事典』全6巻、『逍遙、抱月(ほうげつ)、須磨子(すまこ)の悲劇』など。
[菊池 明]

生まれた年は吉田氏が繁俊と加藤氏より2年早く、山田氏が1年遅いようですが、1番長生きは吉田氏、次が山田氏、繁俊、1番先に亡くなったのが加藤氏ということに。

偶然ですが、登志夫も、写真の中で2番目に亡くなりました。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)