訪欧歌舞伎の手帳⑥ベルリン

訪欧歌舞伎手帳Ⅲはなぜか紛失。Ⅳは、9月30日のベルリンから始まります。ここからはもう、歌舞伎の一団が来て、公演前の記者会見に同席しています。出席の俳優は勘三郎、梅幸、羽左衛門、九朗右衛門各氏でした。この公演は、国際文化振興会の岸信介会長を団長、松竹の香取伝常務を副団長として総勢70名、9月28日羽田を出発し、ドイツ、フランス、ポルトガルの三国を巡演して11月5日に羽田に戻ります。

この日、日本の姉夫婦からの手紙で、繁俊が肺癌だということが知らされました。

「最良一年だが少々ムリ。この冬をうまく越せばよいという見込み。」「1957年冬の大患以来病気がちだったが胃潰瘍もまず治りこの分なら80まではと思うたのに、最も恐れていた癌とは何とも不運という他なし。ただなるべくは気づかず、苦しみ少なく、一日も長生してもらうことのみ願う。おそれるのはいつ気づくかだ。そしてどう納得させるかだ。」

登志夫はこの旅が始まって以来の自分の不調を癌ではないかと思い始めていましたが、この知らせを聞き、「私のガンについての妄想懸念は、父の病への虫のしらせだったかとさえ」と記しています。

繁俊が亡くなるのはそれから2年後ですから、当初の見込みよりは長生きしたということになります。


翌日は、歌舞伎公演の稽古。野村狂言団として、友人の野村万作さんが親子で公演をしており、夜はこの公演に駆けつけ、そのあと会食し、朝の4時までバーで飲んだと書いてあります。野村万作さんは、登志夫の葬儀の際,旧友として弔辞を読んでくださるほど、長く親しくお付き合いのあった方です。

翌10月2日はAプロ(「車引」「俊寛」「娘道成寺」)の初日でした。夜8時からの開始ですから、終演時間は11時を過ぎたでしょう。しかし登志夫の記録によると、パリでの初日の終演時間は11時57分、その後レセプションがあり、ポルトガルのリスボンの初日は9時45分の開演がさらに遅れ、「車引」が開いたのは10時6分、終演は午前1時15分だったそうです!

初日は関係者や招待客など、固い雰囲気で反応が薄かったことを心配していましたが、2日目からはがらりと雰囲気が変り、笑いや拍手がおき、登志夫は「やっと成功を確信することができた」と言っています(「訪欧歌舞伎 その記録と反響」より)。

初日の終演後は大勢で打ち上げをし、明け方6時まで。翌日はレセプションが朝3時まで…。登志夫だけでなく、周りの人たちも同じような夜型の行動をしています。

5日にはBプロ(「仮名手本忠臣蔵 大序~四段目」「鏡獅子」)の初日。「(忠臣蔵は)アメリカ公演よりだいぶおちる。勘三郎、薪水、力弥、顔世みな落第」という感想を持っています。

「訪欧歌舞伎 その記録と反響」によると、

「さて五つの演目のうち、受けた順にならべると、俊寛、忠臣蔵、鏡獅子、道成寺、車引となると思う。このうち俊寛と忠臣蔵は、ほぼ同等であろうか。」と、これまでの経験からも、「筋がはっきりしていて劇的葛藤も西洋のドラマの理念でちゃんと理解できること、従って演技表情も、何を表現しようとするかがよくわかること、一幕ものとして首尾一貫し完結していること、装置や演技などが中では最もリアルなこと、等によるものと思う。」と理由づけしています。

最下位の「車引」については、「これは日本人でも予備知識なしには不可解な一幕だから、所詮無理な演目であった。はじめは『鳴神』があげられていたが、種々の理由から中止となり、かわりに、荒事様式の典型として選ばれたのがこれだった。(略)特殊なエロキューションや隈取、見得…Aプロの第一の演目だっただけに、それらの余りの異様さにおどろき、ただ戸惑うのみといった表情であった。」

ベルリンでもユネスコの調査は続け、東ベルリンへも藤浪氏とともに足を延ばし、劇場で「三文オペラ」を鑑賞したり、美術館見学などしていますが、「暇さえあれば死期迫る父のことのみ考える」と書いています。

ベルリンには12日まで滞在し、歌舞伎団は次の公演地パリへ移動します。


河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)