イギリスからの手紙②

ストラットフォードの「シェイクスピアサマースクール」を終え、8月27日の夜行でスコットランドのエジンバラへ向かいます。ここには9月11日まで滞在しました。
8月31日エジンバラからの絵はがきです。
「こちらは寒い寒い。昨日も今日もプログラムに従って朝から夜8時10時までの観光バス。
雨風ひどく、冬オーバーの襟を立てて歩く人があり、私は昨日のバスの棚にレインコートを忘れ、明日遺失物係へ取りに行く。娘が生まれて安心してボケたようだ。プログラムがいっぱいで暇なし」
9月1日の手紙には、
「この日ロンドン大使館を通じて、外務省から、歌舞伎公演同行の依頼が正式にあった。折り返し承諾の返信を出す。これで本決まり。
遺失物係へ取りに行く。罰金1シリング6ペンス(70円位かな)そのかわり向こうがサンキューと礼を言う(これはいい制度だ。忘れ物しなくなるから)。2日間コートなしで震える。今日まで4日間立て続けにバス責め、どこへ行っても草原、牛、羊、小さな城、甲冑、刀、なになに郷とか公、伯などのファミリーの油絵肖像、そして湖、池、小川、石の橋。寒々として11月位の感じ。樺太より北なのだから当然か。マクベスの妖婆は本当かも知れぬ。三日月。」
9月2日の手紙には、
「ヒースの花が思っていたより大変可憐(幸運の花だとさえ言われる)で、カーペットのように赤紫色に一面に咲いています。ともかく、ここは暗く冷たく、しかも澄み切った感じの国です。文化圏的にはむしろ北欧や北ドイツに近く、妻子を連れてまた訪れてもいいような、そんなところです。
昨夜はエジンバラ城の庭の野外舞台で、スコットランド特有のチェックの衣装で中世楽器のリュートやドラムの単純なリズミカルな、少女の群奏群舞を見た。」
9月4日の手紙、この日から夜は芝居を見て回リます。スコットランドのおじさんの絵が入っていました。
「伝統的なスタイルだそうで、男も時々
チェックの縞のスカートを履いて、車掌のように大財布を前にぶら下げて歩いている。顔は乃木大将みたいなヒゲときている。全くおかしい。(それで若いのだ)ところ変われば、とは言うものの。」
この頃、母みつから登志夫への手紙です。
良子が実家で出産をしたので、母みつが訪問しました。下町の商家の60年も前の様子です。
「8月23日に退院されたと言うので翌日、お七夜なのでちょうど良いと思って、お赤飯がわりに、とりのこ30ほど誂えて、メロンと持っていきました。折良く産婆さんが風呂から上げて体を拭いているときで、大きな口を開けてオギアーオギアー泣いているところ、すっかり着せて床の上へ寝かしたらおとなしくなって、湯冷ましを飲んで寝込み、帰るまで目も開けず寝続けていました。
クーラーと扇風機のある奥座敷で、温度計を枕元に置いて22度を保っているので、これはおじいさんの役目ですって。ちょうど心地よい涼しさで、あせももできず、気持ちよさそうに寝てました。真っ赤な丈夫そうな肌の色だし、髪の毛も黒々してたくさんで長くて、初めてあんなの見ましたよ。もっぱらあなたに似ていると言うが全くそっくりで、鼻が高くて可愛らしい顔をしていました。
お母さんも初めてなんだそうで(お嫁さんも実家に1ヵ月ばかり行ってたそうだから)生まれたては初めてなんでしょう。家中代わる代わる覗きに行くんですって。目が開くと開いたぁーってみんなで駆けつけるんだと言っていました。
今度の日曜は8ミリを持って、姉さんの旦那さんが来てくれるそうです。あなたに見せるんだってお母さんの話でした。ともかく今度は丈夫に育つでしょう。皆さん総がかりで大事にしてて下さるから安心してらっしゃい。こちらへ帰るのも良子さんの体がしっかりしてからの方が良いからと言ってきました。お茶やお菓子をご馳走になっておいとましました。」
登志夫の前の結婚での2度の辛い経験があるので、河竹家のほうは「ともかく今度は丈夫に育つでしょう」と登志夫に安心をさせる手紙を書いています。
良子の妹から登志夫への手紙。
「(略) 8月18日の午前5時4分に無事に女の子が生まれました。体重は3470gで,とっても大きな丈夫そうな赤ちゃんです。先生に顔が本当によく似ていて驚いてしまいました。姉などは先生にそっくりだわ、こんなにかわいい赤ちゃんを初めて見たわと言っています。
父や母も大変喜び、そわそわしているようです。父などは、いつもの調子で何でもないような顔をしていますが、心の中では嬉しくてたまらないのか、今日などは赤ちゃんを迎えるためにと、畳を入れ替えたり障子を張り替えたりして、家の中はてんてこまいです。口には出さない父ですが、これが父にとって最大の表現なのでしよう。」
この無口でぶっきらぼうな、深川の父は、「預かっている赤ん坊に何かあったら大変だ」と、床の間を壊してクーラーを取り付けたり、窓をつけたり、さっさと用意万端してくれたのでした。
9月7日の手紙です。
「赤子と言うものは、頭と胸と同じ太さなのだね。キリッとしまってきて、どうして大人の顔つきだ、俺より偉そうだ。写真を見て、やっぱり急に、すぐ側に感じるようになった。泣き声が聞こえるようだ。名前のようにのびのびした、いい子に育つだろう。
文化財から重ねての調査依頼や日本ユネスコ、歌舞伎座、パリユネスコ、文化財、パリ大使館などにビジネスレターを書きにヨーロッパに来たような2 、3日だ。」
9月10日の手紙。
「昨夜の「ハムレット」はダメだったが、今夜の「マクベス」は良かった。マクベスの妖婆はここのはストリップ、妖美女。帰りは寒かった。明日は兵隊行列「ナマリの兵隊」が、チャルメラのおじさんのような笛と太鼓でやる軍楽隊のパレードです。
9月11日の絵はがきです。
「この葉書は典型的な東スコットランドの空気です。」
9月12日はエジンバラよりピトロッホリーへ。
「小さくて静かなpitlochry(スコットランド中部の観光保養地)に着きました。風が少なくなり少し暖かくなりました。若い人や子供がたくさん集まっています。滞在中は毎晩芝居を見ます。」
9月15日の手紙には‥
「(略)ロンドンから航空券がやっと届いて一安心。ユネスコがノロノロだからいつも間際にイライラするのだ。エジンバラを立つ時、相当文句を書いたレターをユネスコその他へ出した。金を出してやってるんだから不平を言うなと言うのかもしれぬが、(ことにアジア、アフリカ諸国には)とんでもない話だし、今後の日本人のためにも、日本人は何でもぺこぺこお世辞を言って有り難がっていると思われては癖になると思って、時々はっきり書いてやることにしている。
けれど、どの国も同じで、小さい村は人々が親しみやすい。ひげづら40歳のホテルの親父も元アクターで大変面白い。
昨日は地元のイギリス国際交流基金の、アフリカに10何年いたと言う、イギリスでは型破りのずんぐりした豪傑肌の男性が、100マイル遠い街から車でやってきた。近くの城を案内してくれて、ウイスキーやビールなどを飲んだりして、あとロータリークラブでの話を頼まれた。川上音二郎の「オセロ」の最後で、兵士が悪党のイヤゴーと間違えてオセロを射殺してしまったと言う話をしたら、みんなケタケタ笑っていた。日本人と同じだ。」
登志夫はここでも快活に地元の人と交わったり談笑したりしています。
9月17日絵はがきです。
登志夫が奈都子のために買った靴とよだれかけ。
9月18日
フェスティバル劇場で講演。そのポスターです。
18日の講演後、アイルランド島東部の首都ダブリンへ飛び、10日間滞在します。 
「演劇フェスティバルと同時に国際カントリーガールのミーティングありで、外人でいっぱい。お金もイギリスのポンド全て通用、パスポートも何も調べないのんきな国です。」
21日には英語圏で最初の(1924年)国立劇場の長老に会って、いろいろ話を聞き、文化庁に手紙で調査報告を送っています。

9月27日は一泊でコーク市(アイルランド南部、ダブリンの次に大きな都市)へ。ここでも芝居を観たり、新聞社の取材を受けています。
9月28日、29日
一晩泊りのコークからダブリンへ帰って、7月の温泉地での癌の疑いと尿管結石の顛末、結婚して間もない妻子を残して、死ぬかもしれない状況への責任感、深い罪悪感で、眠れぬ夜を過ごしたことを「今はもう大丈夫だから」と念を押して、詳しく書き送りました。

翌9月30日はベルリンへ飛んで、早速2時から歌舞伎公演記者会見です。そこへ思いがけず、父、繁俊の肺がんの知らせが届きます。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)