浅草フランス座の神棚に置かれていた繁俊著「歌舞伎作者の研究」
登志夫の訪欧公演からちょっとはなれて…。
いま、ネットフリックスで、ビートたけし原作、劇団ひとり脚本・演出の「浅草キッド」がヒットしています。ビートたけしが大学をやめて、浅草のストリップ劇場フランス座でエレベーターボーイなど下積みをしながら、深見千三郎を師匠として、修業している頃のお話です。50年以上も前の浅草が舞台で、昭和の雰囲気がおもしろく、登場人物も魅力的で一気に見てしまいました。
この劇場は、渥美清や萩本欽一も輩出しているとあって、ただのストリップ小屋ではないわけですが、井上ひさしがいたこともよく知られています。
井上氏は、登志夫著の「作者の家」にあとがきを寄せてくださっているのですが、こんなことが書いてあります。
「また、河竹繁俊の『歌舞伎作者の研究』(昭和15年、東京堂刊)は、ひと頃、私たちのバイブルとなっていた。浅草のストリップ小屋の楽屋の神棚に、なぜだかこの一冊が供えてあって、新入りの文芸部員はこれを通読することを義務づけられていた。支配人のこの教育法はまことに適切であった。たとえば私などは、第十一章の『歌舞伎作者の制度・職掌・生活』にすっかり感動してしまい、『この小屋の給料がどんなに安かろうと、それは問題ではない。とにかくどんなことがあろうと、自分は小屋の裏方として一生を過ごそう』と神棚に向って誓いを立てたほどであった。では一体どのようなくだりに感動したのだろうか。
≪さて、幕が開けば、その場に関する責任は稽古した作者が一切を負ふのである。舞台の上では羽織の着られない慣例があったから、着流しのままで役者の間をあちこちと、見物の邪魔にならないように縫って歩いて、せりふの忘れたのを附けてやる、…初日から三日間は御定法としてせりふを附けてやるものときまっていたが、それ以上は、役者が相応の礼をして頼まなくてはならなかったものである。…それ故初日から数日の間は、舞台の上には役者以外に作者や付人の作者があちこちにいるのである。現今では黒衣を着ているが、これは三十年来のこと、京阪の風を輸入してたもので、江戸から東京にかけては、素のままで出たものである。御定法三日が過ぎると、幕切れ少し前に、上手大尽柱の下に来ていて、幕になる時に、すっと立ち上がりチョンと木を入れる。…その時である、男前の好い作者が、意気な縞物の着流しに献上博多の帯を掛長に結んで、緋縮緬の襦袢の袖裏をひらりと翻して、すらっとした姿を、観衆に見せて悦に入ったなどというのは≫
こういう箇所にむやみに感動し、ストリップ小屋をその昔の芝居小屋に見立てて、暗転のときの小道具の出し入れなどを出来るだけ〈粋〉にと振舞ったものだった。そしてこの第十一章を手引きに、あの暗がりのなかで培われた現場の感覚は、いまだに私の脳味噌の一部を占拠している。私はその現場の感覚をたよりに戯曲を書く仕事を続けているのだから、やはりこれは河竹繁俊という先達にお礼を申し述べなければならないが、私はその気持ちを『お世話になった』という言葉で表現してみたのだった。」
繁俊の著書からの引用は、昨年8月8日のブログでも「歌舞伎講話」という本を紹介したときに同じ箇所を引用しました。この本にも同じ文章が掲載されています(第十一章ではありませんが)。
井上氏がフランス座にいたのは昭和30年前後ですから、まだ繁俊も健在だったころですが、本人はフランス座に自分の本があることなど知らなかったことでしょう。ビートたけしがいたのはそれよりも15年くらいあとですから、もうそのころはこの本が置いてあったかはわかりませんが、「浅草キッド」でフランス座の楽屋を見て、(セットですが)、ここにもしかすると繁俊の本があったかも、と考え、一層感慨深かったのでした。
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