ドイツからの手紙③イギリスからの手紙①

7月28日からの5日間、ドイツのerlangenを訪れた時の絵ハガキです。


「ここは学生演劇祭が行われる唯一の劇場。」

こちらも同じ町。演劇祭の様子がわかる絵はがきです。このあたりで野外劇があり、見て回りましたが、結構寒かったようです。

ここのあとは、wunsiedelへ向かいます。

「4時間ほどだが、3回も乗り換えるので、やっぱりくたびれる。しかし体のほうはだんだん本調子に戻りつつあるので心配ない」と、元気になりつつある様子を伝えてきました。

8月2日から8日までの1週間Wunsiedelに滞在し、ここにでも演劇祭の芝居を観ます。
ここは大変小さい町で、登志夫の足で10分も歩くと突き抜けてしまうようなのどかなところだったとのこと。
8月2日には、日本から妻良子や父母からの手紙が着いて、先便で良子に写真を送れと書いたので、良子からの写真が届きました。子供の名前の最終決定もして夜返事を書いています。こちらは良子が送った写真です。

4日には、ここの村長が差し向けた新聞社から三人来て、写真を撮っていき、翌日の新聞に大きく出ます。地方都市の演劇祭に日本人が研究に来るのが大変珍しかったようです。

こちらは同じ町、8月7日の絵はがきです。
「山の中の巨岩の迷路を歩き、昼、芝居を観、8ミリなどを撮り、帰りはぶらぶら1里の坂を歩いてきた。森の小道や黄色に実った麦畑沿いの道を1人で散歩。」良子がいきなりバアーと飛び出してくるような気がする、と書いています。気分も晴れやかで元気を取り戻しています。
8月8日にはミュンヘンに移動します。ミュンヘンでは手違いのため、ドイツでも一流のホテルに泊まります。それまでユネスコが指定するひどい?ホテルが多かったので、この日は良い気持ちのようです。翌日からはまたユネスコご指定のホテルに移りましたが…。
こちらは、8月10日ミュンヘンの絵はがき。
「夜のミュンヘンはいかが。こんなにきれいではないが、とにかく西ドイツではハンブルクに次ぐ大都会。しかし南部ババリアという、牧畜や農耕地帯の中心で、なんとなく田舎くさい。代表的な食べ物は豚の厚切りローストに、じゃがいもをすって丸めて蒸した団子といったところです。泥臭い謝肉祭の起こるにふさわしいガサガサした土地です。(略) 今夜も1時近くに帰ったところだが、部屋の窓からは満月に近い月と2本角の尖塔のある大教会が見える。」
その後、ミュンヘンからマインツ、そこからライン川沿いに汽車でボンへ。8月15日ボンからイギリスへ発ちます。1時間45分位の飛行時間です。ボンの飛行場からの絵はがきには「私は荷物のチェックも皆すんで、飛行機を待つ間、そして次の飛行場にゴツゴツと車の音をさせて着陸するまでの間が旅中での1番の楽しい時間なのです」とあります。
8月16日の手紙はキザなイギリス人の通訳の事や、お金が10進法でない不便さなど、イギリスにちょっと批判的でした。
8月17日から26日まではストラットフォードでの10日間のシェイクスピア・サマースクールです。
8月18日、ストラットフォードから娘への誕生カードを送りました。

良子は、登志夫からの誕生日カードを長女の枕元におきました。

8月21日の絵はがきには、

「ともかく(良子の)お父さんからの電報で母子とも元気の様子、本当に安心しました。ここの一緒にいる世界各国からの若い友達もみんな喜んでくれています。長い間重いお腹を抱えてご苦労様でした。どんな顔をしているかといろいろ想像している。あと充分気をつけて。お乳はよく出ますか。
ストラットフォードでの毎日は午前中聴講、午後は見学、夜が芝居でなかなか忙しいが、若い人々と一緒で学生気分だ。」
8月23日の手紙には、
「ここでのプログラムが忙しくて、なかなか机に向かう暇がありません。歌舞伎公演の事で外務省やパリのユネスコ、ベルリンなどと種々打ち合わせたりすることがたくさんあるので、そういうことでくたびれます。ここは寄宿舎生活なので着いてから4日ほどは全く1滴の酒もビールも飲まず。これも新記録。私もNatsukoが生まれて本当に何かほっとして安心しました。とにかく羽田が楽しみだ。このところ快晴続き。『ハムレット』見たが感心せず。」
8月24日の手紙には、
「もう午前0時20分になりました。シェイクスピアの『恋の骨折り損』を見て帰ったところです。今日は1日雨だった。明後日でここのサマースクールも終わるのでみんな浮き足立ってきた。面白い人々で、その上いろんなことを知っていてたいした演劇学者です。10日間寝起きを共にして、またそれぞれ、地球の裏側へと散っていくのです。まず、再び会わないないでしょう。おかしなものです。私はまた1人で27日の夜行でエジンバラへ向かいます。」
8月28日、エジンバラより奈都子への手紙
「(略) 標準よりだいぶ大きく、髪も黒々と、父そっくりの子(これは当たり前だが)だそうだね。私も生まれた時は大変かわいかったとか。医者や看護婦が私にも抱かせてくれ、私にもと、もみくちゃにしたと言う(だから赤ん坊の顔はわからないものだが)が、大震災直後の心身とも疲れきった女体から、しかも養祖母の死後2週間の日に生まれ、虚弱な幼時を送った私に比べて、お前はほんとうに、幸福な子だ。よかったね奈都子!」



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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)