訪欧歌舞伎の手帳⑤バート・ヘルスフェルト~エアランゲン~ヴンジーデル〜ミュンヘン

7月15日、レックリングハウゼンからヘッセ州バート・ヘルスフェルトへ。ここでも演劇フェスティバルの見学です。この地では、現地の医師の女性の家に滞在します。宿泊費を払って泊まる、今の民泊のような感じでしょうか。静かな別荘のような家で、ドクターの他、そのお母さんや娘さんも住んでいます。初日からフェスティバルを見ますが、途中脳貧血症状になり、癌を疑ってさえいます。

さらに翌日、フェスティバルの帰りから、大変な腹痛に見舞われ、お医者さんを呼んでみてもらいます。痛み止めの注射で治り、その翌日はまたフェスティバルで野外劇をみます。尿検査などもしてもらいますが数値に異状なく、21日になってやっと結石の石が出ました。それからすぐに全快というわけにはいきませんでした。まだ調子は戻らず、癌の疑いも考え、死について書いたりしています。26日には医師の勧めでクアハウスでCO2風呂に入りマッサージを受け、滞在先の家族とともにドライブへ行き、東西ドイツの国境地帯を見、「分割の悲劇」を実感しています。

28日には飲みに行った先で何組かのドイツ人と知り合いになり、この度の後半に訪ねて再会することになります。登志夫はわりに社交的で、臆せず現地の人と会話しますし、具合が悪くてもあまり酒はやめません。

28日、親しくなった家族に別れ、この町から次の町バイエルン州エアランゲンに発ちます。ここも古い劇場のある演劇のさかんな町です。ここでも各国の参加のフェスティバル芝居を見ます。到着した日には早速町のビヤホールへ行き、大学生からご当地のレストラン情報などを聞き出しています。

8月2日、今度はバイエルン州ヴンシーデルへ。ここもいまもルイーゼンブルク演劇祭で有名なところです。町長などから演劇祭の話を聞き、野外劇を見たりビヤホールへ行ったりと、忙しくてもジョッキで出てくるドイツビールを楽しんでいます。

5日の手帳には、「新聞に大きく出る」とありますが、下の記事がそれです。ドイツ語で、記事は読めませんが、「河竹登志夫教授がヴンジーデルへ」というタイトルのようです。


8月8日、ホテルが決まらないままミュンヘンへ。到着後、30分並んで宿泊斡旋窓口のようなところで高いけれど新しくていいホテルが見つかります。ここには昭和33年にも来ていたので二度目でした。到着した日からビヤホールが看板になるまで飲みます。

翌日は事務局の手配したホテルに移り、夜には東北大学教授の石田一良氏と会食、翌日も石田氏と一日一緒に戦災後復興成らずという感じの「シアターミュージアム」を訪れ、食事のあとはアイスクリーム屋で文化史の話を面白く拝聴しています。

12日には、バート・ヘルスフェルトで知り合った家族のもとをわざわざ訪れています。この一家の子供と気が合ったようです。翌日はボンへ戻り、15日、ロンドンへ移動します。

8月15日、ドイツからプロペラ機でロンドンへ。ここで迎えに来たガイドについては気に入っていません。「男のguideがくる。ひどくnervousでおちつかない男。いかにも尊大な感。」「hotel着、ビール、dinner。平気で人の招待客のつもりになるなど呆れた図々しい奴だ。」翌日はロンドンの街を歩き、「面白くもない。ただピカデリーにはBeatlesのinfluenceで男か女かわからぬ青年がウヨウヨいるのだけが違う。」と前回訪れた時との変化を記しています。その翌日からしばらくはシェイクスピアの生誕の地、ストラッドフォードへ、「シェイクスピアコース」という演劇イベントのようなものに参加。18日には女児誕生の電報を受け取りました。「こんどは無事に育ってくれと、それだけ祈る。」と書いています。登志夫はそれまで、前妻との間に生まれた二人の乳児を喪っていました。 登志夫のユネスコ研究員の手帳はⅡの次にⅢがあるはずなのですが、なぜかこれが紛失しており、次はⅣ(9月30日から)に飛んでしまいます。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)