ドイツからの手紙①

 1965年という年は、前年やっと一般の人々が外国に旅行す ることができるようになったばかりでした。ですからこの 西ドイツの田舎町に日本人が来たことが、ニュースになるほどでした。むろん日本の人々も西欧の演劇事情など知る由もありません。その意味で、毎日のように芝居を見て回る 登志夫自身、当時流行った「何でも見てやろう」の意気込みでいたのだろうと思います。今では考えられないような通訳の不手際、相手国や日本 の出先機関などまだまだいろいろ不慣れなことが多くて、個人の旅は大変な思いをしながらのものだったことがここまでの手帳でよくわかります。

 7月1日午後、Recklihghausenに着いての絵はがきです。地図を買ったり、英語が通じないのでドイツ語の勉強のつもりで人に聞いたりしながら、汽車でちょいちょい乗り替えてフェスティバルを見てきたようです。「まずここで数日パリの 疲れを癒そうと思います」と書いています。

 7月2日 には、下の絵はがきの、新しい劇場でアーサーミラーの劇を見ました。駅前ホテル(バーンホフホテル)で時々急行がロケットのような音で通過すると思うと、煙を吐く汽車が、ポッポッポと昔懐かしい息づかいでドップラー効果を証明していく。」

7月5日絵はがき 。駅前ホテルの騒々しさは書いていますが、出産間近の良子に、自分の体の不調はかきません。
7月7日の手紙には、アーサーミラーの劇を2本見て、

「ドイツの劇は一般に フランスのに比して国柄ゆえか、重苦しく、しかも絶叫型 が多い。ただ声の訓練はどの国でも優れているので日本の新劇映画俳優のように何を言っているのかわからぬようなのはない。」

 この地域でフェスティバルが始まったのは戦後、ドイツは まだ英国の占領下にあった頃で、石炭工場の人々が芝居 復興を成し遂げた話などが書いてあります。そして日本の七夕を懐かしんでいます。

    
7月10日手紙 には、紙片が入っていました。

「この町の駅の食堂で、新聞からちぎった紙、天気予報だ。「皆さん、まるで冬のようですよー暑いと思えば寒くなり、ぐっと冷え込めば、すぐまた和らぐ。……、そして明日はー気温が変わる位のもので、大差なし」と言うのだ。 ビンの中の小僧が可愛かったので、ボーイに目配せしてちぎってきたものです。」


この天気予報、ずいぶんいい加減な、と思われますが、この日(10日は2通手紙が届きました)の手紙にこんなことが書かれています。

「11時半、朝食を済ませて郵便局で書いています。駅のビュッフェには、今頃から酔漢がいる。ドイツの一面です。今は珍しく良い日差しだが、ついさっきは雨が降っていた。日本よりいっそう変わりやすく、寒い位には全く驚いた。この町の特長でもないらしく、パリといい、ここといい、日本の梅雨期に劣らぬ悪天候です。(略)そろそろ郵便局も昼休みになる。こんな勤勉なはずのドイツも、12〜3時まで休む。ちょっとおかしいみたいだ。夜など寒いのはいい避暑かもしれないが、水泳パンツが役立たず弱った。いましたが、またひどく降ってきた。みんな出口の中で止むのを待っている。すぐまた晴れるから⋯さて、そろそろやんだようだ。」

郵便局でこの手紙を書いている30分間の目まぐるしく変わる天候の文章を読むと、ドイツのいい加減なカエル天気予報も当たっているように思えます。

7月14日。この日、劇団「雲」への約束の原稿をかきあげ、フェスティバルの責任者の方に会ったり、本の小包を作って出したり、トランクを詰めたり、

「結局もう午前1時半過ぎてしまった。明日はまた重いトランク持って旅の空だ。次は新しき田舎からです」
と言う手紙を書いています。寝たのは2時半だったようです。ほんとにその頃、キャスターがついてるトランクなどがない時代ですから、重いトランクを持っての旅だったはずです。寝不足のままバート・ヘルスフェルトに向かいます。

 

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)