訪欧歌舞伎の手帳④ドイツ/レックリングハウゼン

今回の手帳も、まだ歌舞伎と合流する前、ユネスコ研究員としての旅のものです。これまでモスクワ、レニングラード、パリ、とトラブル続きのストレスフルな旅を続けてきましたが、ここでは果たしてどうなるか。実は、これを書いている私も、手帳をちゃんと読んだことはありませんので、ドイツではどんな展開が登志夫を待っていたのか、冒険小説でも読むかのような気分です。

さて、一か月近くに及んだパリ生活も終わり、7月1日、朝のルフトハンザ機でケルンへ。バスでボンまで行き、DAAD(ドイツ学術交流会)の担当者に会い、旅程を作り、そこから煙を吐く汽車の一等車で(←やっといい待遇!)レックリングハウゼンへ。ここはかつての炭田で栄えた町。ここでのフェスティバルを見にきたわけです。

ここでの宿は特に恵まれず、「田舎びたホテル、各室に電話もなし。大きいバスのある部屋もない。せめてシャワーをと思い16号室へ入った(湯はぬるし。)」。

着いた日から劇場へ行きます。「夜はものすごくやかましくてねられぬ。やっぱりバアサンのいったようにシャワーはないがまだしも12号の方がよかった。翌朝12号の方へ逃げ出す。ここのマダム、老人だが美人。」

3日は朝から汽車でデュッセルドルフへ。JETROの日本人担当者の案内でドライブで城や森、川などを回って、日付が変わってから日帰りでホテルに戻ります。

毎日の観劇、調査に疲れてきた上、この宿が 「terrible」、町で最低のホテルで落ち着かないことが度々書かれています。そして体調の悪さをなんとか治そうと努力しています。

このあと、9日には劇場のあと飲みに行き、午前1時過ぎにこのホテルに戻ったところ閉め出され、仕方なく「ヨーロッパホテル」という格上ホテルに泊まり、久しぶりに大きなバスタブで入浴したとあります。しかし、締め出された登志夫の怒りは相当でした。翌日宿のおかみにクレームを言うと、なんとおかみは裏の戸のカギを差し出し、さらに夜中1時半~朝7時までは閉めるという立て板を出しました。

その後も気を取り直せないまま、観劇や、フェスティバルに関する調査を続けます。

上の手帳に、「芝居メモ」とありますが、この手帳と別冊で、この旅中に見た、なんと77本にものぼる芝居(!!)の観劇記録の専用手帳があるのです。登志夫は生涯いったい何文字の字を書いたのかとたまに考えますが、何かにつけて、あとで困らないようにきちんとした記録を残しています。ちなみに、この手帳の右上に96という数字がありますが、これは単純に、この手帳の通しページ数です。ページ数をなんのためにわざわざ振っているのかはわかりませんが、登志夫のすることですから、きっと理由があったのでしょう。

下の写真が観劇記録メモ。

メモの1ページ。この時のチケットが残っていました。

話は元に戻り、13日には、ここにきて初めての晴天に恵まれますが、15日にはこの地を離れ、次の町bad hersfeld(バート・ヘルスフェルト)へ移動します。Wikipediaによると、この町は、1951年から開催されている修道院跡で行われる演劇祭が現在も有名な歴史ある町だということです。温泉も有名だとか。

登志夫がほとんど憎悪した「駅近すぎる最低ホテル」、チェックアウトの際、「閉め出しのことが気がとがめたと見え」、一泊分以上の宿代を値引きし、おみやげも4個くれた、とあります。次の町までは一等車を手配してもらっており、せいせいした気持ちだったでしょう。しかし、依然として体調はすぐれないままでした。

最後に、今日11月15日は繁俊の命日でした。亡くなって54年が経ちました。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)