訪欧歌舞伎の手帳より②レニングラードからまたモスクワ

「訪欧歌舞伎の手帳より」といっても、しばらくはまだ歌舞伎団としてではなく、ユネスコ研究員としての手帳です。①のモスクワに続き、やっとレニングラードへ移動します。

しかし、長いことモスクワに足止めされたため、レニングラードには5月29日の朝到着し、31日の夜中には発ってまたモスクワに戻るというスケジュールになりました。夜汽車で往復し、芝居を連日見る…自分なら客席で大いびきをかくだろうと思いますが、登志夫はちゃんと見ていられたのでしょうか?

こちらは29日、到着後の記録です。日本歌劇団の一行も偶然一緒に移動し、ホテルへ行ったものの、またもや予約されておらず結局4年前の訪ソ歌舞伎の時にとまった「10月ホテル」に泊まることに。ここは「相変わらずひどいホテル」「オバケヤシキ」と書いているように、ひどいところのようで、モスクワのウクライナホテルのときには、「前回歌舞伎団と泊まったホテルで奇縁を感じる」、と感慨深い様子でしたが、この時には腹立たしい偶然としか感じなかったようです。早速夕方からゴーリキーシアターで観劇。そして歌劇団の一行の梶氏とまたもや酒を。梶氏の部屋には蛾がいる、と書いてあります。


30日、白夜がモスクワよりひどく、早くに目が覚めています。昼夜とも、プーシュキンシアターで異なる芝居を観劇。また梶氏と飲み、この日は梶氏、酔ってガラスの瓶だかを割り、登志夫が部屋まで送っています。

翌31日、早くも最後のレニングラード滞在日、ふたつの劇場で芝居を見て、夜11時40分の汽車で再びモスクワへ。そして、ここまでの「先方のミス」として、手帳の左ページに(登志夫は記録は基本右ページに書き、左には、お土産を誰に買ったとか、手紙を誰に出した、などなど、右ページの日付についてのその他のメモを記しています)一覧にしています。

出発からここまで登志夫の手帳をみてきましたが、あまりの行き当たりばったりで無責任な対応の数々に、読んできただけでどっと疲れ同情の気持ちがわいてきます。このあとモスクワに戻っても迎えはなく、もとのウクライナホテルには泊まれず、交通の便の悪い遠いオスタンキーノホテルへ行くことに。登志夫はここにも姿を表さない担当者の男性に電話して「厳重に文句」を言っています。

モスクワに戻った翌日は大使館へ行って対応の悪さを説明したりしていますが、「(担当者は)メモはとっていたが、『よくこういうことはある』というくらいで何かの折にぜひいうからとはいっても、結局は事勿れだろう。頼りないことだ」という結果です。

そのあとはまた通訳のワーリャとその友人に会い、「この方がおとなしそうだし、美人だ」と書いています。登志夫はわりと、かなり、女性の外見にこだわりのあるタイプで、こういう私的な手帳や私的な会話でははっきり好き嫌いをあらわしました。初対面で、今後かかわらないような女性についても、結構な確率で外見についての記載があったりします。通訳のワーリャのことは、全然好みじゃない、とどこかに書いています。ワーリャにしてみれば、本当に大きなお世話で、お互い様といったところでしょう。この日は夜に芝居をみて、岡田嘉子さんの関係で頼まれた原稿を書きます。

ワーリャは登志夫を自宅に招いてくれました。お母さんがもてなしてくださった日の写真です。


2日は芝居メモを整理、夕方から劇場。

翌3日、モスクワからパリへ移動します。パリには3日から30日まで滞在することになります。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)