登志夫より、モスクワからの手紙
結婚して7ヶ月でソ連からヨーロッパを巡る半年に渡る仕事の旅に出た、登志夫から良子への便りです。私的なところは除いて、60年近く前の各地の風物、飲食、人物、劇場などの記述などを紹介します。前回の手帳に書いてあることを手紙にしているので一緒に読むと面白いです。
こちらはクレムリンの風景の絵ハガキ、モスクワに着いての第一報、5月3日付けです。
「とにかくなんとなく万事がくるっている有様でスムーズにいかず、目下、SASが取ってくれたとあるホテルで計画を立て直しているところだ。しかし元気だから本質的な心配は何もありません。(略)今朝はここの素朴なる食堂でパンと紅茶と茹で卵、ソーセージ2本也。」
食べ物については、「じつにまずい。まずビール、こんなのがビールかと思う。醤油、ソース類は皆無。塩(ザラザラの岩のようなのが多い)、コショー(これはわりにいい)、カラシ(すっぱいまずいやつ)だけ。コンポート(フルーツの干したのを入れたジュース様の水)ときたら飲めたものじゃない。(略)お前の料理、この国なら(失礼、外国はどこでも!!)王様の晩餐だよ、まったくの話が。」良子の料理を持ち上げています。
最後はまた、新妻の料理を持ち上げますが、ストレスフルな日々を過ごしての実感だったのでしょう。
これは5月17日の絵ハガキ。
5月20日付けの絵ハガキです。
「レニングラードへ昨日立つはずでトランクも何もみな用意していたが例の如く旅費のことetcで、一両日延びることに」なりました。日本向けラジオの収録などをこなし、この日は日本歌劇団の舞台の初日を岡田嘉子さんと並んで見物、内容は「やや粗末なもので気がかりです」。
5月21日午前2時35分付の手紙では、「レニングラード行きはまだはっきりしない」「のんきなここの係の人々もまことに申し訳ないと通訳を通じていってきた。その通訳がまた無類のあわてものときていて道は迷う、劇場は間違える、いやはや呆れたものだ」「要するにもう二日もしてなんともならねば腹をきめてここで調査をするつもり。」と、レニングラード行きをやめる気持ちすら出てきます。
「昨夜のラジオはどうだったろう。多分(3時間でテレグラムはつくというので)間に合ったと思う。うちのトランジスターでもshort waveではいるから。中身は何ということもないが声だけでも聞いてもらいたいとおもっただけ。」電報で自分の出演するラジオの放送予定を知らせるなど、つい最近まで不便だったな、とそれも懐かしいですね。
「レニングラードまだ決まらぬ。もうやめようかと思う。ここでも調べることや見るものはいくらでもあるので。今日は演劇学校の見学に、夜は児童劇を見る予定」
それから5月26日午後7時40分付の手紙。
「今夜は4日に芝居見学等開始以来はじめて、本当にはじめて、夜の外出なし、ホテルでゆっくりできます。ぽつぽつと、お前と話をしよう。」と良子に語りかけます。この日朝、夜の汽車でレニングラードに立つはずで支度を済ませたのに、突然中止になった顛末などを記しています。食事のまずさ、白夜のことなどをゆっくり書いて知らせています。4日から26日までの間、寒くて連絡の悪いロシア語の世界で、22日間ぶっ続けで昼夜あちこち見て回り、その間に報告書を作ったりと、なかなか厳しい旅の始まりでした。
「いましがた、あわてもののしかし人がいい(通訳の)ワーリャがあくせくと仕事をすませて帰って行った。そのそそっかしさは…今夜の汽車は『12時40分』だという。『本当か』と冗談まじりに聞いた。『Look Please』と差し出した切符を見ると『23時40分』。ホラミロ11時40分じゃないかと言ったらだいぶ考えて『こりゃ大変だタクシーで行かなきゃ』とあわてて帰って行った。(略)10時15分にホテルに迎えに来る。ではまたレニングラードにて。」
このワーリャ、モスクワで二人目の通訳でしたが、ふたりとも名前がワーリャ…。このことについて、「通訳のワーリャ(前もワーリャ、通訳はみんなワーリャかときいてやったら、偶然だといった。ワーリャ、マーシャ、サーシャ、ナターシャなどがありきたりの名らしい。最後がみな(ンニャ)という音。猫の合唱です、まるで)とこの手紙にあります。
登志夫は予定より9日も長くモスクワに留まり、やっと28日の夜汽車で次の地に発ちます。
0コメント