登志夫より、モスクワからの手紙

結婚して7ヶ月でソ連からヨーロッパを巡る半年に渡る仕事の旅に出た、登志夫から良子への便りです。私的なところは除いて、60年近く前の各地の風物、飲食、人物、劇場などの記述などを紹介します。前回の手帳に書いてあることを手紙にしているので一緒に読むと面白いです。

こちらはクレムリンの風景の絵ハガキ、モスクワに着いての第一報、5月3日付けです。

モスクワは5月3日、気温は5℃!

「とにかくなんとなく万事がくるっている有様でスムーズにいかず、目下、SASが取ってくれたとあるホテルで計画を立て直しているところだ。しかし元気だから本質的な心配は何もありません。(略)今朝はここの素朴なる食堂でパンと紅茶と茹で卵、ソーセージ2本也。」


こちらは 翌日、5月4日午前8時20分の手紙。歌舞伎訪ソ公演のときに泊まったホテルに偶然泊まったことに奇縁を感じています。
素朴な感じの絵はがきです。

こちらは5月4日の葉書。この日は封書も葉書も書いています。文化省の人と劇場スケジュールを決め、毎日芝居が観られることになり喜んでいます。この日見たのは「恋に関する104頁」、日本にありそうなタイトルと書いています。ほんと、今も日本の連ドラにありそうなタイトルです。
5月7日午後11時の手紙。トランクがやっと届いたあとです。「しかし、三日間はちょっと気がかりだったね、やっぱり。外へ出るとトランクだけが頼りなのだから。」
そしてモスクワのバスについて。「都内へ行くにもタクシーはバカバカしいのでバスで行く。5カペーク(=20円)、車掌はいない。5K入れる箱がありハナカミのような紙がニョロニョロ出てくる巻機あり、のると自分で5K入れてその紙をちぎる。それでおしまい。只でのろうと思えばのれる。だがみんな感心に払う。しかも5Kのコインのないときは、10Kでも15Kでもちらつかせて「たのむ、たのむ」(パジャルスタ)というと誰かが両替してくれるか、又は自分の払うべき5Kをくれる。それをもらうと「スパシーバ」(thank you)といってほうりこむ。それきりだ。とにかく日本のような酔っ払い(つまり人に迷惑をかけるやつら)はいないし公共心はある、人がいい、親切、のんびりしている。万事生きていればいい主義。私も相当なものだけれどここは全くそうだ。」と、バスの乗り方を通してここの人を見ています。

食べ物については、「じつにまずい。まずビール、こんなのがビールかと思う。醤油、ソース類は皆無。塩(ザラザラの岩のようなのが多い)、コショー(これはわりにいい)、カラシ(すっぱいまずいやつ)だけ。コンポート(フルーツの干したのを入れたジュース様の水)ときたら飲めたものじゃない。(略)お前の料理、この国なら(失礼、外国はどこでも!!)王様の晩餐だよ、まったくの話が。」良子の料理を持ち上げています。


5月11日午前1時半付の手紙は、日本歌劇団の訪ソ公演で来ていた友人の梶氏と飲んだあとに書いています。研究員として支給されるのが1日10ルーブルほど、ホテルに3.5、物価が高いため、食事に5、タクシーでも乗ったら0になると、お金の事情を書いています。それから俳句もいくつか認めており、そのひとつは「ひとりゆけば 氷雨頬打つ 露都の春」。「夜、梶か誰かと話す以外は通訳と英語あとは片言、単語ばかりのロシア語だからね。」「ここでの生活も10日たったわけでようやく少し調子が出そうだというところかな。荷物の事やなんやかやで、どうも嫌気がさしてならなかったので。食物もどこも同じようで代わり映えもせぬ。生きてりゃいいということだ。あなたの料理がどんなにうまいかつくづくわかるよ。そして何より私のために作ってくれたものを食べるということ」

最後はまた、新妻の料理を持ち上げますが、ストレスフルな日々を過ごしての実感だったのでしょう。


これは5月17日の絵ハガキ。

絵ハガキの文面には、ホテルウクライナに日本歌劇団の一団が袴姿で着いていて、千田是也、伊藤熹朔夫妻、岡田嘉子夫妻に会ったと書いています。

5月20日付けの絵ハガキです。

「レニングラードへ昨日立つはずでトランクも何もみな用意していたが例の如く旅費のことetcで、一両日延びることに」なりました。日本向けラジオの収録などをこなし、この日は日本歌劇団の舞台の初日を岡田嘉子さんと並んで見物、内容は「やや粗末なもので気がかりです」。

5月21日午前2時35分付の手紙では、「レニングラード行きはまだはっきりしない」「のんきなここの係の人々もまことに申し訳ないと通訳を通じていってきた。その通訳がまた無類のあわてものときていて道は迷う、劇場は間違える、いやはや呆れたものだ」「要するにもう二日もしてなんともならねば腹をきめてここで調査をするつもり。」と、レニングラード行きをやめる気持ちすら出てきます。

「昨夜のラジオはどうだったろう。多分(3時間でテレグラムはつくというので)間に合ったと思う。うちのトランジスターでもshort waveではいるから。中身は何ということもないが声だけでも聞いてもらいたいとおもっただけ。」電報で自分の出演するラジオの放送予定を知らせるなど、つい最近まで不便だったな、とそれも懐かしいですね。

「レニングラードまだ決まらぬ。もうやめようかと思う。ここでも調べることや見るものはいくらでもあるので。今日は演劇学校の見学に、夜は児童劇を見る予定」


それから5月26日午後7時40分付の手紙。

「今夜は4日に芝居見学等開始以来はじめて、本当にはじめて、夜の外出なし、ホテルでゆっくりできます。ぽつぽつと、お前と話をしよう。」と良子に語りかけます。この日朝、夜の汽車でレニングラードに立つはずで支度を済ませたのに、突然中止になった顛末などを記しています。食事のまずさ、白夜のことなどをゆっくり書いて知らせています。4日から26日までの間、寒くて連絡の悪いロシア語の世界で、22日間ぶっ続けで昼夜あちこち見て回り、その間に報告書を作ったりと、なかなか厳しい旅の始まりでした。


そしてやっと、5月28日、モスクワからの最後の手紙を出すことになります。「19日夜の予定が9日ずれたわけです。いやはや全く呆れてものもいえません」

「いましがた、あわてもののしかし人がいい(通訳の)ワーリャがあくせくと仕事をすませて帰って行った。そのそそっかしさは…今夜の汽車は『12時40分』だという。『本当か』と冗談まじりに聞いた。『Look Please』と差し出した切符を見ると『23時40分』。ホラミロ11時40分じゃないかと言ったらだいぶ考えて『こりゃ大変だタクシーで行かなきゃ』とあわてて帰って行った。(略)10時15分にホテルに迎えに来る。ではまたレニングラードにて。」

このワーリャ、モスクワで二人目の通訳でしたが、ふたりとも名前がワーリャ…。このことについて、「通訳のワーリャ(前もワーリャ、通訳はみんなワーリャかときいてやったら、偶然だといった。ワーリャ、マーシャ、サーシャ、ナターシャなどがありきたりの名らしい。最後がみな(ンニャ)という音。猫の合唱です、まるで)とこの手紙にあります。

登志夫は予定より9日も長くモスクワに留まり、やっと28日の夜汽車で次の地に発ちます。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)