訪欧歌舞伎の手帳より①モスクワ

1965年、昭和40年には訪米、訪ソに続き、初の訪欧公演が行われ、登志夫はまた文芸顧問という役割で同行しました。この時はユネスコ研究員として招かれ、本隊より先、5月1日に出発し、10月に本隊と合流、帰国は11月始め、という半年にわたる長い旅になりました。登志夫が良子と再婚したのは前年10月、渡欧中の8月に長女が生まれ、父繁俊の深刻な病気の事もわかり、自身もかつてない体調不良に悩むなど、色々起伏のある旅でした。

5月1日12時20分、良子ほか大勢に見送られ羽田から飛び立ちました。香港、ニューデリー、カイロ、ロンドン、コペンハーゲン、ストックホルムを経由し、モスクワに2日の夜9時半に到着しました。ところが、ここで荷物が届いておらず、ユネスコからの迎えもなく、泊まるところもないということがわかります。

荷物には衣類ばかりだったので、惜しくないが、結婚して半年、妊娠中の良子がパッキングしてくれたことを思うと、それが淋しい、と書いています。翌日、日本大使館からユネスコの電話番号を聞き、やっと担当者と通訳の女性(ロシア語→英語)が来てくれ、ホテルウクライナへ移動します。このホテルは、昭和36年の訪ソ公演の時一行が泊まった時と同じホテルでした。

翌4日も荷物は出て来ず、登志夫はすこし不機嫌です、

「朝食は一階のbuffe。まずいものばかりだ」「何しろこんどは万事が行き違い多く前途甚だ多難だ」。

文化省が作った登志夫の劇場視察スケジュール(5月11日まで)はこんな感じです。ブレヒトの芝居が流行っており、さかん、と書いてあります。


この日も荷物は出て来ず、不調な雰囲気は続きます。

「5時半ころ通訳来、バスにてComsomol Thr.へ。雨が雪になる。『冴えかえる 春の寒さに降る雨も 暮れていつしか雪になり』を思い出す」と、「三千歳直侍」の清元の詞を記しています、5月のモスクワはまだ寒く、ホテルの部屋は暖房は効いていたものの、乾燥が悩みでした。

「劇場はfull house。終わってmetroのところで(通訳と)別れて帰ろうとしたが、9日のparadeの準備のための軍隊のためか、policeがbusはないmetroで行けという。metroを待ったがどれが行くのか分らず、雨の中をぐるぐる歩いた末taxiをひろって戻る。dinnerまだなので空腹にてBuffeで食べたが足りず、食堂で肉のあげたのとウォッカなど2㍔余りも取られ、つまらない」

翌5日、やっと荷物が発見され、この日は少し楽し気な記載も見られます。

「3時近くに通訳よりtel、 Airportにtrunkが来ているという。さすがに嬉しく、午後はそれにあてる」「Mchat(劇場)”Mary Stuart”、文化省の連絡があったため裏から入り、trunkも楽屋口へおく。そうして特別席へ。Yシャツの汚れが気になるくらい。見物は時折こちらをみる。どこかの王子とでも思ったのか。芝居は極上」

劇場は夜公演なので、7日の昼には動物園へ行っています。

「ただanimalがいるだけ。建物も造園もひどい。空襲の焼跡のようだ。ロバのひく車が唯一のあそび場。ライオンもトラもいるが、ただいるというだけだ。それでいて大人が多いのにおどろく。何故か。サルが一匹もいない。クジャクが羽を広げている。猛獣どもが生肉を食ってねているのと、ワシやタカが天井のないオリにいるのにおどろいただけ」ダメ押しで、「Zooの食堂のひどいまずさ」。

夜の芝居は「大したものでなし」。

5月12日からのスケジュールも詰まっています。



19日にレニングラードへ移動という予定になっていますが、これは現地での色々な事情で延期になります。登志夫はこの頃になると、連日「梶」なる人とお酒を飲んでいます。日本歌劇団(現在OSKに)がこの時期に訪ソ公演に来ており、早稲田の演劇科からの友人の梶孝三さんが、照明の仕事で来ていて、偶然同じホテルに泊まっていました。2人ともお酒が好きで気が合い、「ゴタゴタ続きの中、梶さんと日本語で話すのが心休まる」と、登志夫は良子への手紙にも書いています。

結局28日になるまで移動ができず、モヤモヤしながら夜は劇場、昼は関係者に会ったりして過ごします。到着からずっと連絡の悪い対応にイライラは募り…。

翌日は約束の時間に電話もかかってこず…、自分でも

「殆ど憤慨絶頂。気分すぐれず」と書いています。ちなみに、ここに出てくる「千田」は千田是也氏、「宇野」は宇野重吉氏のことです。この方々も、日本歌劇団関係で来ていたようです。

この通訳さんは、いろいろおっちょこちょいだったらしく、登志夫は本当に困る、と何度かぼやいていましたが、モスクワで無事見送られ、お別れすることになりました。

予定よりずいぶん遅れて夜行列車に乗り、翌朝レニングラードに着きます。約束より必ず早めの行動をし、なんでもきちっとしなくてはいけない、という登志夫にとって、このソ連でのスタートは耐え難い体験だったようで、体調が悪くなるきっかけになってもいるように思えます。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)