登志夫の結婚
観世寿夫さんと野村万作さんが高砂を舞って下さいました。
遊玄亭玉介さんが獅子舞を披露してくれました。
こちらは、昭和54年の週刊文春に掲載されたふたりの結婚当初の写真です。「結婚」という欄で、なれそめなどを語るという内容です。まだ繁俊夫婦も健在で成城に一緒に住んでいた頃、こちらは離れの住まいです。
この記事で、ふたりの馴れ初めを語っています。登志夫の友人野村万作さんが、共立女子大の狂言研究会の指導をされていて、その発表会を登志夫が見に行き、そのときピンチヒッターで出た良子と出会ったようです。登志夫はここに書いてあるように、「カエルそっくり」と思って気に入ったように言っていますが、ふつうに見たら、良子の顔は全然カエルに似てなどいません。「イキの良さそうな」というのは本当で、今も声がよく通り、誰よりもリアクションがいいので、登志夫にとっては若さもさることながら、なにかと元気づけられ、この人となら明るい家庭を築けると感じたのでしょう。
こちらは文春掲載写真のアザーカットです。こちらの方がはっきり写っています。
登志夫の随筆にはずいぶん良子が登場しました。登志夫の第一随筆集『包丁のある書斎』に収められている「酒」という雑誌に掲載された随筆「かみさんと酒」からすこし引用します。ずいぶんのろけています。
「うちのかみさんは、ぜんぜん飲まない。
飲めないのである。いつだったか、まだアンプル入りカゼ薬が禁止されるまえ~通りすがりの薬屋へとびこんでチュウチュウ吸ったところ、トン死はしなかったが、数分後に酒呑童子の如く赤変し、フラフラしはじめたには、全くおどろき呆れた。(略)飲めず、全く興味も持たないが、しかし私の酒については、このかみさん、きわめて寛大である。なにしろ週に二度は大学の夜の部があって、必ず外食だし、芝居を見たり談会合に出たりも商売のうちとあって、ふだんは自宅で食事することは週平均二回、多くて三回ぐらいのものだ。おそい日は、どうせどこかで飲んでくるにきまっている。飲めば五、六時間はハシゴだ。十二時前に帰るのは不可能に近い。ほんとはさびしいらしいが、文句はいわない。出かけるとき、ちょっとにらんで『また明日かえっておいで』。午前様は覚悟しているのだ。殊勝なことである。つまりそれほど、私を信頼しているのであり、ということは、私が信頼さるべき人格・酒格の持ち主ということを、賢明にも看破した結果にちがいない。(略)
時折、何気ない調子でいたずらっぽく、『酔っているときのほうが好き』という。そして意外に、この言葉にはいつも実感がこもっているのだ。負いきれない仕事をいつも背負って、安まる間のない私の神経が、いくらかでも解放され、一個のヒトにかえるからだろうか。(略)
うちの山の神、深川っ子、二十四歳。結婚して、一年半になる。」
最後、結婚して一年半、とありますが、結婚後半年、翌年の5月から半年間、登志夫は歌舞伎訪欧公演文芸顧問と、ユネスコ研究員という仕事で家を不在にします。不在中の8月には子供が生まれます。良子は最晩年の繁俊の看護、介護も手伝ったりしましたが、繁俊が面白い冗談を言うのでいつも笑っており、「ほがらかさん」とか、おめでたいという意味でしょうか、「鶴子さん」とか呼ばれたそうです。若いお嫁さんと、孫もでき、河竹家の雰囲気はずいぶん明るくなったことでしょう。
結婚後数ヶ月の報知新聞のインタビュー記事には、仕事で深夜2時より早く寝ることがないため、朝はギリギリまで寝てがたがた出ていき、日曜日は外出など一切せず、来客はうんざり、とかなりはっきり答えています。これを読んだらお客さんもさぞ来づらいでしょう。それが狙いだったのか?
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