超虚弱児と相撲①

大正12年の今日9月1日は黙阿弥の家がたくさんの貴重な江戸の遺物とともに焼け、繁俊の長男が川に流されて亡くなった、恐ろしい震災のあった日です。今年も隅田川、萬年橋、小名木川を見て合掌します。

さて、幼い登志夫の写真です。登志夫は47歳の頃の随筆(昭和47年「幼児開発」)に、この写真について触れています。


「それは、日本橋の三越本店の写真部であったと思う。うすぐらい、長い廊下のような板の間だった。中年の写真屋さんが『ハイ坊ちゃん、ここをみて。ほーら、ハトが出るかな、、、、』と、肩の高さほどのポールの先を指さした。そうして、ボッと音をたてて、フラッシュが光った。
事実は多少違っていたかもしれないが、私の網膜の底にかすかに残っているのは、数秒間の、そういう光景なのである。
5つ~七五三の日であった。昭和3年の11月15日。かぞえ年でだから、12月7日生まれの私はその時、満3歳と11ヵ月余りだったわけだ。
半ズボンで、えりに白いラフのついた、黒のビロードの服。この一張羅のビロードが好きで、よそ行きと言うとこれを着たがったのを、覚えている。イガグリ坊主で丸々と太った顔ーだが、じつは瞼がはれぼったくて、ブクンとむくんだ顔なのである。」
河竹一家の関東大震災の罹災の顛末は去年の9月のブログに書きましたが、その時、まだ乳飲み子だった兄が隅田川で流され行方不明になり、姉は大やけどを負い、それぞれが家族を探し回った大変な数日間でした。黙阿弥の娘の糸女は震災の翌年避難先の宇田川の仮住まいの家で、大正13年11月24日乳がんで亡くなりました。
その2週間後の12月7日、生まれかわるように登志夫が誕生したのです。随筆からの引用を続けます。
「本所で大震災にあった翌年、両親の1番の苦闘時代に私は生まれた。大変虚弱な子供であった。隅田川にはまって汚水を呑み、アメーバ赤痢や擬似コレラで弱りきった母は、その頃から10貫(40キロ)に満たない痩躯だった。その母から生まれた私が丈夫なはずはない。生後まもなく左脚が化膿して大手術をした、その後が踝(くるぶし)に残っている。それからお尻の周りの何とかいうオデキを切ったり、咽後膿炎と言うノドの難病を間一髪の切開で助かったり。物心ついてからも、扁桃腺炎だ肺門リンパ腺だ大腸カタルだと、年の半分は寝てくらす有様。いつ肺病で血を吐いて死ぬのかと、そんなことばかり考えるニヒルなませた子だった。夜ごとの夢にも、葬列のように並んで不気味に笑う無数の石地蔵を見る、そんな毎日。幼稚園も知らず、小学校もやっと2学期から出たくらいだった。」
病気ばかりで楽しみは本とお絵かきとラジオだけだったと言う。ちょうどこの頃(昭和3年)ラジオで相撲中継が始まり、この時から登志夫と相撲の関係が一生続きます。

「ずいひつ背中の背中」の玉錦時代からの引用です。
「私は相撲の中継放送に血をわかせていた。その頃父が買ってくれたものか、小さな相撲のコマが二組書斎の一隅にある。その一つはひょうたんを太らせたような形で、表面がはげ落ちて力士の名は1つも読めない。直径10センチの木製の土俵が付いている。
 
もう一種は普通のコマの形で9個あるが、これも名前が分かるのは常ノ花、豊国、大ノ里、山錦、錦灘の5つ。大正から昭和初年にかけての力士達だ。青いのが玉錦だったと思うが、自信は無い。」

今現在はさらにほとんど読めない位になっています。数も1個足りません。ついでに他のコマもあるので写しておきます。ひとまわり大きな形をしています。

元気な子供たちはコマを当てっこしながら勝負をして大騒ぎして遊んだことでしょう。このコマを回してみると、病床で1人でコマを回しながら静かに遊んでいた幼い登志夫が目に浮かびます。
相撲の放送に取り付かれ、たちまちいっぱしの角通になり、呼び出しの真似をよくやったそうです。玉錦全盛時代で、初太郎とか宗吉といった名呼び出しがいて、少し元気な時は登志夫の呼び出しが始まり、親たちは病気が治ったと安心したそうです。
大きな強い男への無意識な憧れだったに違いありませんが、生涯続くその憧れをたどっていきます。次は写真や絵のコレクションです。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)