一般短文切抜2より
尾崎氏は、この“古典化をいそげ”の説には同意見だが、将来の見通しについては少し違っており、「カブキは、もともと庶民の芸術だった。ただ明治以来の歴史が、たとえば演劇改良運動によって貴族のものになったり、あるいは国策演劇になったり、いろいろゆがめられて、だんだん庶民の手から離れていった。古典化すれば、それはふたたび庶民の手にもどることになる。古典化によって、カブキはいよいよ現代につながることだろう」と。
戸部氏と登志夫は、歌舞伎には二つの道があっていいと話しました。
「河竹登志夫氏は、古典化と現代化の二つの方向があっていいといったが、現代化という意味は、決してカブキ俳優が現代劇に出演するということではない、と断っている。つまり現代劇を創造する側で、古典のもつ演劇性を学ぶこと、そこに“古典が現代に生きる道”があるというのだ」。
登志夫はそれから56年後、最後の著書でも、これからも歌舞伎には「二元の道」が大切だとして一貫して述べています。
こちらはそれから3か月後の「婦人文化新聞」。新作の場合よく、「これは歌舞伎なのか?」「歌舞伎俳優がやるものは、歌舞伎だ」というようなやりとりをされます。登志夫は新しい作品を作る努力や情熱によって生まれた新作をこきおろしたり、こんなのは歌舞伎ではない、というような意見は言いませんでした。ただ、ある新作を見たときに、あれはきれいじゃない、と言っていたのを覚えています。歌舞伎は世話物であっても、やはりどこかに美しさがあるべきだと思っていました。
こちらは珍しく、服装について語っています。戦後15、6年たったといっても、大学の給料が安い上に、倹約家の家で、まだまだみんなお古を着ていました。
妻の良子の友人がちょうどこの年に早稲田大学に入学して、登志夫の授業を受けていました。その頃の話が出ると、今でも、「先生はいつもだぶだぶのギャザーの寄ったズボンを履いていて、縄のような紐で止めていた」と笑います。登志夫は「いくらなんでも縄ではない、縄のように見えたベルトだよ」と苦笑していました。確かに繁俊は恰幅が良く、登志夫は大変痩せていたのでお下がりはサイズが合わなかったのです。
こちらは昭和36年12月の都民劇場の会報「歌舞伎通信」。十一代目團十郎の襲名が先送りになっていること、これからの期待感などが書いてあります。
そして翌年4月の襲名にあたって、共同通信に新團十郎の弁慶について書いています。
翌年1月、「テレビ界1963年の顔」という共同通信の企画に、大木豊氏らと鼎談形式で、今年活躍するスターは誰かという、芸能記者のような仕事もしています。A、B、Cとなっており、どの発言が登志夫かはわかりませんが、この頃贔屓の團子(いまの猿翁さん)の名をあげているCが登志夫かな、と思います。
こちらは同じ年の同じ1月、歌舞伎界のことしのホープについて。「好敵手の團子、染五郎(今の白鸚さん)」とあります。左下に万之助(今の吉右衛門さん)の写真もあります。今年8月には今の染五郎、團子さんによる『三社祭』の上演が予定されており、この当時から次々世代…。登志夫もこの世にいないはずですね。
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