「七世市川團蔵」(繁俊校註)

うちにあったのになかなか読まないでいた戸板康二作品集「団蔵入水」。昭和41年、引退後にお遍路を済ませてから、帰ってくる船から海へ入水して亡くなった八世團蔵について書かれたものです。結局遺体も見つからず、残った荷物の中に、所持金があり、「この金を費用にあててください」と書いてあったそうです。

写真の右は、昭和41年12月に刊行された新版『七世市川團蔵』。八世が亡くなったあとに装いをあらたに出版されたものです。


『團蔵入水』にこんな件があります。

「(八世團蔵は)亡父から直接聞いた話や、演劇史料をもとにして、数年前から、克明に書きためた、『七世市川團蔵』を、(八世團蔵を襲名する)一年前すでに仕上げていたからである。それは早稲田大学演劇博物館長であった河竹繁俊の斡旋で、求龍堂から、もう出版されていた」。

「昭和34年の秋、『銀座百点』の座談会に出席した團蔵は、この原稿を、亡父のために碑文の筆をとった坪内逍遙への謝意を表すため、演劇博物館に届けたと語っていた。つまり、博物館に亡父七代目團蔵の史料が残ればそれで満足だという気持で、それが活字になることなんか、夢にも考えなかったらしい。

この團蔵が死んだのち、戦争中のとぼしい初版にくらべて、見ちがえるようなみごとな造本で、新版が世に出たのを付記しておく」。

「長年の功績を選ばれる一部の理由にされて、文部大臣芸能選奨を贈られることになった時、はじめは当惑し、次に苦笑した。ちっとも、うれしくなかった。げんに、引退披露興行が、目の前に迫っている。退職金みたいなものだと思う。

その金を三倍にして、今度も、早稲田の演劇博物館へ持ってゆくことにした。菩提寺に永代供養を願うといった感じがあった」。

ここで繁俊の名を見つけたので、本棚を探したところ、立派な本が見つかりました。これは、昭和17年の初版ではなく、戸板氏が言う「見ちがえるように見事な造本」の新版です。こちらはその新版に収録されている、昭和17年に刊行された当時の初版に繁俊が寄せた「はしがき」です。

「順序は後先になったが、この本のできた由来を書き添えておきたい。

市川九蔵氏(八世團蔵)が、御先代の團蔵丈の思い出をまとめようとした動機は、御自身で巻頭に記されている。それを先ず慫慂した畏友林和さんの思いつきにも敬服するが、数年の丹精を重ねて初志を貫徹し、かくもよい本にまとめられた九蔵丈の努力には、少なからぬ敬意を表するものである。

昭和六年のある日、九蔵さんが演劇博物館へ見えた。そうして『七世團蔵芸談』と題した、五冊の稿本と共に、團蔵丈が親しく使用した『佐倉宗吾』の光然の衣裳その他数点の記念品を取り揃えて、寄贈を申し出られた。そうして、成田山に建立した碑の拓本と、『名優七世市川團蔵之碑』と坪内逍遙先生の揮毫した原稿の、彫刻に用いなかった分の一枚をも寄贈して下さったのである。私共は言うまでもなく、まだ御存命であった逍遙先生においても、其のご厚志を深く感謝されたのであった」。

と、八世が原稿の段階で演劇博物館に収めたことが書かれています。中身がとても面白く「團蔵丈の人となりと名優たる所以もわかり、歌舞伎そのものについても大いに教えられるところがあった」ので、稿本にしておくだけでは惜しいと、書籍化の機会を探りました。


「ようやく昭和14年10月になって、『中央公論』の誌上に一回~全体の分量からすれば、約二十分の一だけ発表させて貰った。少なくも三回は続けられる予定であったが、意の如くに運ばなかった。事変は益々深刻になって行きつつあったので、機会は遠のくばかり、責任を感じている私としては申し訳ない心持で荏再日を過ごした。

そこへ、昨年(昭和16年)の暮近く、求龍堂の山本夏彦氏が突如として現れた。そうして、嘗て『中央公論』へ出た、あの團蔵芸談を~あの時読んで以来忘れないでいるが~是非出版させてほしいとのご懇請を承った。九蔵丈にもいなやはなかったので、ある書店へあずけてあった複写本を返してもらい、時をうつさず着手したのであった。

新体制版の反乱している今、こういう豪華めいた本になることも一考されたのであるが、書店側の好みでもあるし、團蔵その人の風格から考えても、或いは合致しているところがなくもないので、何にも言わず一切をお任せしたわけである。

私は、この決戦体勢下にあっても、この書の刊行されてよい意義が一二ならずあると信じている。

例えば、忘却してはならない我が文化財に対する一つの貴重なる文献であることは、その一である。戦後において必然的に急速に推移すべき劇芸に対して資益する所多き明治の『役者論語』であり、歌舞伎劇述の教科書であることは、その二である」。

初版は「戦時中のとぼしい初版」と戸板氏が書いていますが、それでも決戦体制下においては、こういう種類の本を出版すること自体が、繁俊がこれだけ言い訳めいたことを書かなければならないほど、贅沢と思われることだったのでしょう。


そして、こちらは昭和41年、八世の没後にi新版となったときのはしがき。

「八世團蔵は死して『七世市川團蔵』という有意義な芸談をのこしてくれた」。

「いまは、この稿本から受けた第一印象を、ありのままにしるし、八世團蔵氏を記念するこの出版を霊前に供えて、せめてご冥福を祈ることとしたい」。

と書いています。

こちらは、八世の「終わりにのぞんで」。新版のときのあとがきです。


左のページは、八世夫人が新版のために寄せた「あとがき」も。


七世團蔵は1836年生まれ、1911年歿ですので、黙阿弥とちょうど20年あとに生れ、18年後に亡くなったことになります。ですので、七世から九世までの團十郎のことや、五世菊五郎のこと、もちろん黙阿弥のことも登場します。ひとつひとつの役についての芸談、工夫が多数記録されているのはもちろんですが、当時のかなり行き当たりばったりの興行の様子がよくわかりますし、またこの七世が大変な潔癖症で、そんな話も生き生きと浮かぶように書かれています。

価値ある本を世に出すことに尽力した繁俊に、敬意を表したいと思います。

冒頭の写真、八世からの繁俊宛の手紙は、稿本の段階でのやりとりか、書籍化が決まってからかわかりませんが、うちに残っているものです。なんと見事な筆跡。
これは八世が亡くなったあと、登志夫がおそらく共同通信に書いた追悼で、神戸新聞、名古屋タイムス掲載のもの。ここには、この新版刊行の話がちょうど訃報を聞いた日にあったのだと書いてあります。新版が、自殺で亡くなったから刊行されたのではなく、名著ゆえだったことがわかりました。この話をもし八世が生前に知っていたら、もしかして海に入らなかったのでは?とちらりと思いました。41年6月、繁俊は翌年11月には亡くなりますが、偉大な先代のあとを継ぐのは並大抵ではないと、繁俊も登志夫も知っているだけに、八世への哀悼の気持ちは深かったことと思います。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)