写真に残る登志夫の戦中・戦後

今回は、登志夫の若い姿の写真集。

こちらは戦中、昭和18年5月と6月に富士裾野滝が丘での野営演習の時の1枚。成城学園高等科3年です。登志夫は中列右から三人目。眼鏡をはずしています。登志夫はこのあと8月に東大受験を控えていました。このあたりのことを『酒は道づれ』で少し触れています。

「高校一年の12月8日にはじまった太平洋戦争は進み、時勢はどんどん悪化していく。野営演習や軍需工場への動員もふえ、まもなく高校は半年短縮となり、巷には絶望のムードが濃くなってきた。私は覚悟し、居直って、純客観の科学の世界にひたむきにうち込み、配給酒をあつめてのファイア・ストームに刹那の生甲斐を見出すといった、そんな心境に傾いていった。」

家に関係した文科に進むか、物理を究めるか、どちらも好きな道だったので、悩んだ高校時代でした。



この下は登志夫が撮った野営での友達の写真。自分が写ったものはアルバムからはがしてあり、戻っていません。右に写っている中村陽吉さんとは、死ぬまで毎年必ず暮れにふたりで会っていた仲でした。中村さんはまだご健在で、登志夫没後は登志夫の妻良子と娘がかわりに年に一度お会いするようになりました。


こちらは東大入学の時の写真。高校卒業が半年繰り上げられたため、昭和18年10月が入学式でした。最後列左が登志夫。

「成城の家の涼しい地下防空壕で、ミガキニシンの臭いに辟易しながら勉強したおかげか、どうやら受かって十月に入学。」

こちらは昭和18年。成城の家の庭で繁俊(左)たちと。
昭和19年2月の登志夫。

昭和19年夏。キャンパスでの登志夫。下駄に角帽。真ん中です。

こちらは左が登志夫。

真ん中が登志夫。

昭和19年夏、母のみつと。

「十九年になると情勢はいよいよ悪化する。全国十九の大劇場は閉鎖され、大学の近くの、青木堂や南欧クラブといった純喫茶とともに、私たちのいこいの場だったグリル・タムラさえ、店を閉じて軍用機械工房となった。動員につづく入隊を予想して、理学部でも「非常措置」の詰め込み授業がはじまり、十九年の暮れにはふつうより一年はやく、各自が指導教官をえらんで、演習が開始された。」

下の二枚は信州飯田で。母や姉の疎開の荷物を運ぶ手伝いに行ったものか。

そして前回書いたように、小平先生の指導のもと、教室ごと疎開して終戦を迎えます。

東大を出たのが昭和21年9月、同時に成城学園から非常勤講師を頼まれ、旧制新制の中学・高校で5年間物理を教えました。小平先生の天才に挫折感を感じて、先行きを悩みながら、一時は東大大学院や理工学研究所にも在籍しました。


「敗戦の窮乏と虚脱感と解放感のまじった、雑雑とした『戦後』のなかで、映画や芝居やダンスやカストリ雑誌にのめりこみ、根が俗物の私はしだいに人間臭い混沌の世界へと、踏み込んでいった。それは長い戦時中ねむっていた、谷崎文学の官能や、芝居や映画というメディアのもつ肉体性が、強い力で私をつき動かしはじめたのだといえるかもしれない。とすれば、ある意味で文学や芝居の家への原点回帰といえないこともないだろう。”

しかしそこには、以前の理科志望のときと同様、父の意志はまったく働いておらず、私もまた作者の家云々という意識はなかった。大げさにいえば私はただ、芝居と人間の混沌の世界を“終の住処”ときめたのである。曲りなりにも純理の世界を見、自らの資質適性を見きわめた上だから、もう迷いはなかった。早大文学部芸術科へ入ったのは二十三年の春~二十三歳であった。」

こちらは昭和23年、成城学園の庭にて。この年の春、非常勤講師は続けながら、早大文学部芸術科へ入学しました。表情も、晴れ晴れと見えます。妻良子のお気に入りの1枚です。


昭和26年、早稲田の大学院時代。恩師新関良三先生(真ん中)と。

そのころの登志夫。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)