登志夫の終戦/小平邦彦先生

登志夫が東大物理で師とした小平邦彦先生の著書には、登志夫と共通の疎開でのことが書かれています。小平先生は、本の裏表紙のプロフィールにもあるように、数学のノーベル賞「フィールズ賞」を日本で初めて受賞した方で、日本よりも世界で有名な方です。戦後早くからアメリカプリンストン大学へ教授として渡り、日本の頭脳流出の第一号と言われました。

「昭和19年の秋頃から東京の空襲が次第に激しくなってきて、空襲警報のサイレンが鳴ると物理教室の地下室に避難するようになった。透明な青空の一万メートルの上空を編隊をなして飛ぶ、銀色に輝くB29は実に美しかった。薄暗い地下室に避難しているわれわれと同じ人間の仕業とは到底考えられなかった。何か宇宙人にでも攻撃されているような感じで、一向敵愾心が湧かなかった」。

小平先生の書いているこの物理教室に登志夫はいました。

次の見開きになると、戦争はますます進みます。

「翌二十年になると空襲はますます頻繁になり、サイレンが鳴るたびに地下にもぐっていてはろくに授業もできない。何とか教室を田舎に疎開したいものだと思い、父に相談したら、疎開先を世話してやるという」。

ということで、登志夫は長野県下諏訪へ教室ごと疎開することになります。

「疎開して空襲からは逃れたが、食糧難には参った。食糧事情は田舎の方が東京よりもましであろう、と考えていたのが全く見込み違いであった。経験のない人には絶対にわからないらしいが、食べるものがないというのは実に惨めなものである。それにもかかわらず皆よく勉強した。この疎開したクラスから優秀な数学者が輩出したことから見ても、生活環境と学問とはあまり相関関係はないようである」。

登志夫は、折に触れ、戦中戦後のことを書いていましたので、戦争を知らない娘たちにとってはおかげで身近に戦争の忌まわしさを知ることができたと思います。晩年の「私の履歴書」から引用してみます。

「日本の学校は四月入学、二~三月が入試だが、昭和十八年(1943)の東大受験は八月一日から四日間だった。戦雲暗く、高校卒業半年繰上げによる異常現象だ。(中略)

十月入学。(中略)だが入学後間もない十二月に徴兵適齢引き下げが発令され、大学生活は一変する。二年分の授業を一年余で済ませ、二年めに入ると三年次のはずの各個研究が始まった。理論と実験に分かれて指導教官を選ばねばならない。

ひそかにノーベル賞を夢みる私は、物理数学特論と相対性理論を講じる小平邦彦助教授についた。数学と物理の両科を出て当時三十歳、やがて数学のノーベル賞とされるフィールズ賞に輝き、四十二歳で最年少の文化勲章受章者となる大天才だ。量子論の原書輪読の演習が始まったのは十二月九日。だがこの先生との出逢いが、数年後一八〇度の方向転換の遠因になろうとは」。

「小学校入学の年に満州事変、中学へ入った途端に日中戦争、高校へ進んだら太平洋戦争と戦争を節目に育った世代。終戦の玉音放送をきくのは大学二年の夏、信州下諏訪の長地村の小学校の校庭であった。

ここへ来たのはその年の四月一日。小平邦彦先生が陸軍から委託された戦時研究の助手としてだった。(中略)食糧難はどこも同じで、わずかな配給米のほか、諏訪湖のワカサギ、トコロ天、野沢菜と麦湯とで飢えをしのいだ。

時には墓場の野蒜を摘み、山道の蛇を捕まえて焼いて食う。笹の実が生ったときけば、富士見まで臨時の「笹の実列車」で採りに行き、却って腹をへらして帰る。見渡す限り無人の荒涼たる霧ヶ峰へ、雑草採りに二十五キロも往復した、など、いま誰も信じないだろう。握り飯のために農家で馴れない『田踏み』のアルバイトもした」。

小平先生との出逢いは登志夫が物理をやめる遠因となったと書いていますが、それについて、

「さらに私を根底から目ざめさせたのは、小平先生の稀有な天才であった。諏訪に近い先生の実家へお邪魔したときのこと、(略)

と、先生は突然まだ片づいていないお膳の上に紙をひろげて、何やら書き始めた。見たこともない数式が鉛筆の先から澱みなく流れ出していく。それは戦争や周囲の騒音から完全に絶縁された、純一無雑な、しかも鼻唄がきこえてきそうな自然な姿だった。

ああ天才とはこういうものかと、翻然と悟った。凡人でもコツコツやれば、一応の物理学者にはなるかもしれない。だが私はノーベル賞をめざしたはずだ。身近でしかも同等に好きな演劇の道を断念してまで選んだからには、ノーベル賞ならずとも比類のない仕事をしなければ、『家』にも父にも自分にも申訳が立たない。が、いま小平先生を見ては、戦争や空腹にかこつけて無為に過ごす自らの凡才凡俗を認めざるを得ない。科学を志してわずか四年で骨身にしみる、ほろ苦い挫折感であった」。

上は1945年、7月頃に小平先生の実家で撮ったご夫妻の写真。下は同じ年、成城の河竹家の庭での先生。長谷川博己似でかっこいいです。
1986年夏、先生の軽井沢別荘で。


登志夫は小平先生と再会すると、それは生き生きと学生に戻ったように、先生の鞄を持ったり、いそいそと気遣ったのを妻良子は覚えています。登志夫は人生に何人か、とても素晴らしい師にめぐりあっていますが、中でも小平先生は憧れの人だったのでしょう。自分が目指す道で、絶対に手の届かない天才に出会ってしまったことは、登志夫にとって幸だったか不幸だったか、だれにもわかりません。朝日新聞に寄せた下の文章には、早くにわかってよかったと書いていますが、、。


こちらは先生の本を紹介しています。

こちらは2002年の文藝春秋に掲載の、小平先生についての登志夫の文章です。

フィールズ賞を受賞された先生が、晩年は引き算ができなくなり勉強していたと知って胸をつかれた、と書いています。そして、自分がそのような状況になったら、と言っていますが、幸い登志夫は最後まで多分引き算ができたと思います。心底尊敬できる素晴らしい先生に出会えるなんて、登志夫は幸せ者です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)