訪ソ歌舞伎、登志夫の手帳より③


「鳴神」上演をどうするかでもめましたが、公演3日目となる5日にはすべての演目を上演しました。猿之助は「歌舞伎ソヴェートに行く」の中でこの件についてこう書いています。

「俊寛と1日おきに上演したしと本間氏より申し出ありたるも、さすれば義太夫なき日もでき、中古歌舞伎の1幕もなくなること歌舞伎として淋しと思い同時上演を希望す。5日より時間を考慮して、5本上演ときまる。面白き事にて鳴神と道成寺と並べば坊主の陳列となるもいかが、また鳴神なければ道成寺の道行を省きし為成駒屋一言も科白なき事ともなる。」

猿之助は、「俊寛」は絶対に隔日上演にはしたくないと言って、団長と強く衝突しました。前の日、4日の手帳には、本間団長が登志夫に、「昨夜は猿之助に言いたいことをいわしてもらった。あんたのような分かりの悪い親父はみたことがないと言った」と話しており、そのあと猿之助が「本間氏は健康を気遣ってくれたが、『俊寛』はやめられない、と言ったら頑固な親父だと怒られました」と苦笑していたとのことです。

登志夫の5日の手帳には、全部の時間や反応が書いてあります。事前にプログラムに掲載した通りの順番ではなく、「鳴神」を最初に上演したため、「道成寺」のあと、鳴神がこれからやると思って客が帰らなかったということです。

5日の続き、右ページには、「歌右衛門が私の食卓へ来て、ぜひ『道成寺』には解説をほしいという。『藤娘』その他はいいが、これは一寸ちがう。只の踊りではない。伝統の由来、花子のおどりの本心に貫かれている筋が分かってほしい。分った上にも分かってほしい、とのこと。私は一応書いて渡し、今日もみんなで力説したのだと説明。重ねて申し入れることを話した。しかし、再度団長が申し入れたがやはりそういうのは田舎臭いといってウンとはいわなかった。そこでついに、作品の題を予め伝えるだけで通すことになったのである。」

アメリカ公演の時には、イヤホーン解説が大変観客の理解の役に立ったと実感していたため、再三提案したけれども、ソ連の客は質が高いから必要ない、かえって効果を妨げる、プログラム解説で十分である、客は必ずプログラムを買って読む、と抵抗され、それならと、初日に上演前に「連獅子」の解説を幕前で現地の女性が読んだところ、それを見た劇場の最高責任者が田舎臭く劇場の品位を傷つけるからと中止を申し入れてきたのでした。歌右衛門がそれを不服としたことについての手帳の記載でした。この日は最後に「オムスビ喧嘩あり」とあります。

こちらは左が6日、右が7日です。左ページには、「オムスビ、昨日のことがあるので、数をかぞえて分けている。こんなことまで小田島(竹柴金作)では気の毒だが要するに楽屋はこの人がやるしか仕様がないのであろう。ムスビが2つか3つかで喧嘩するのは大人げないが、限られた生活行動の中ではこうなるのである」差し入れのオムスビの数でトラブル発生しての、登志夫の感慨です。戦後、複数世帯とのごはんの分け方でトラブルとなり、登志夫は全員監視のもと、炊いたお米を配分していた経験があるので、それを思い出しもしたことでしょう。

右ページは昼間の見学コースの変更などについて書かれています。


10日にとびます。左ページは見学の記録、音楽会や曲芸を(絵もあります)楽しみ、日本大使館のレセプションが催されたとか。

この日はおみやげもたくさん買ったようで…。この記録におみやげも、下の写真にあるものがあります。みな、ソ連で買ってきたものです。このお人形は、首振り人形、頭と上半身、下半身の三つに分かれていて、つつくとそれぞれがフルフルと揺れます。その下の写真はシャモジ。

このみみずくもソ連で。これ、銀座の「ザ・ギンザ」(今はない)で開かれた「I LOVE BIRD」展に出展したことがあります。「34年前訪ソ歌舞伎随行のときのモスクワ土産。重いのに、トランクで持ち歩いて、バカだねと笑われた。でも小電球を入れると半透明で可憐なんです。赤い目を光らせて夜番をする。やっと陽の目がみられてよかったね」と登志夫の説明が添えてあります。子供達はこれが暗い部屋で赤い目を光らせているのがなんとも不気味だったものです。

展示会場で。写真左、床に置かれています。


15日には、オスタンキノ博物館見学に。ネット検索してみると、「オスタンキノ農奴劇場」が出てきます。登志夫のメモには伯爵のために農奴が作り、俳優も農奴だったと書いてあります。

簡単なスケッチも。

16日には、モスクワでの千秋楽が近づき、舞台上で記念撮影しています。それが、このページの冒頭の集合写真です。「暑い中撮影に手間どり、一同憤慨」とあります。登志夫は左後方に。下の写真はやはりワフタンゴフ劇場での写真です。
手帳の最後にはロシア語メモが。「きれいな」「娘」が最初の方に書いてあるのが登志夫らしいです。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)