初の訪米歌舞伎、登志夫の手帳①
今から62年前の夏、歌舞伎は初めてアメリカへ行きました。日米修好通商百年祭の文化使節として、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコを1ヵ月半にわたって巡演したのです。
登志夫は文芸顧問という仕事を依頼され、これに随行しました。当時は歌舞伎とはどんなものか全く知られていなかったので、講演をしたり、記者会見で答えたり、イヤホンガイドを聴けるようにしたり、劇評を訳したり、普及活動が仕事でした。また活動の参考にするためにアンケート調査などもしました。
歌舞伎団の一行もほとんどの人が海外が初めての上に、本式の歌舞伎を上演するわけで、後から思えば笑い話のような事から、深刻な食い違いまで、難問が押し寄せたようです。
ここに名前の出てくる永山武臣さんは事務局長、小道具の藤浪与兵衛さん、次のソ連公演から加わる照明の相馬清恒さん、大道具の金井俊一郎さんと登志夫は同年輩の30代半ば、お医者様の市川一郎さんを加えてみんな若く、いろんな意味で難しい海外公演の舞台裏を懸命に支えました。
登志夫はこれから30数年、ソ連、ハワイ、イギリス、フランス、カナダ、韓国、ベルギー、東ドイツ、オーストリアなど、また歌舞伎の他にも、能とアメリカ、メキシコへ。「能、文楽、歌舞伎同時上演」でオーストリア、ポーランド、チェコ、イギリスなどに随行しています。
公演の前に一足先に各都市に行って講演、ワークショップ、記者会見をしたりという場合もありました。若くて元気だったのでできたのだと、後年エッセイで書いています。
海外に行くと、毎回このような小さな手帳に公演で感じた観客の反応や、劇場機構の問題点、現地メディアの評判から、日々の食事や人間関係までかなり詳細に記しました。
こちらがその最初の見開き。
東京を発つところから。見送りの人の中に久保田万太郎、北條秀司の名も。築地の松竹会館で一団を見送った大谷竹次郎の挨拶も書いてあります。
「歌舞伎がこの後度々外国へ行けるようになるかならないかの境で大切なときだから頑張ってほしい。それにはいつもの馴れた仕事を忠実にやることだ」という言葉が印象的です。
日航機ではハッピが配られ、勘三郎がそれを真っ先に着たこと。歌右衛門はクマの人形をもって着物姿。機内食はファーストクラス並みのサービスだったこと。この頃はアンカレッジ経由、早くもここでお土産に犬とアザラシの人形、子供への靴を買っている歌右衛門の楽しげな様子も。それからシアトルへ。機内で回覧された注意書きには「遅れると飛行機は待ってくれません」。シアトルから乗り換えてニューヨークへ着きました。
登志夫撮影、アンカレッジでの歌右衛門さん。ぬいぐるみを手に。
それからホテルの部屋割りや歓迎イベントのこと、稽古のことなどゴタゴタもありながら、初日を迎えます。ゴタゴタとは、たとえば役者さんの部屋割りの事、花道の事、照明の色が違うこと、アメリカの大道具などのユニオンの事、高名な劇評家が来ないと開幕できないことなどなど、現地スタッフと、お互いはじめてのことで、解決しなければ問題がたくさんあったようです。
いよいよ初日の本番が午後7時59分に開演。観客がイヤホン解説を利用している様子も書いてあります。お客さんの細かいざわめきや笑いも細かく書きとめています。
「勧進帳」「壷坂霊験記」「籠釣瓶花街酔醒」がこの日のプログラム。
竹本、長唄、鳴物の方々と、ニューヨークセンターの裏口前で。左から2人目が登志夫、右から5人目が四代目時蔵。
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