一般短文切抜1より②
昭和30年10月東横ホール若手歌舞伎プログラムへ寄稿。渋谷初の,大劇場東横ホールは、昭和29年に東急会館開業とともに新設され、ここでの歌舞伎は「東横歌舞伎」として、若手の活躍する場となり人気となりましたが、ここで菊五郎劇団の若手によって歌舞伎が上演されはじめたのが昭和30年。このプログラムへの寄稿のときは、「お夏狂乱」「鎌倉三代記」「鏡山」「鼓の里」「三人吉三」「色比丘尼」「戻駕」が上演されていました。「黙阿弥・小團次・白浪もの」というタイトルで書いた文章は「三人吉三」に書いたもののようです。登志夫30歳の文章ですが、文体というのは、案外変わらないものだと思います。誤植に印がついています(正誤:当時までに→当時すでに、車輪→両輪、緑深い→縁深い、河井新七→河竹新七)。
翌月の同じく東横ホールプログラム。猿之助劇団、吉右衛門劇団合同公演です。「菅原劇について」。この月は「橋弁慶」「巷説灸点斬」「心筑紫恋慕珠取」「菅原伝授手習鑑」「茶壷」「鳴神」という演目が出ています。「歌舞伎オンザウェブ」の記録によると、東横劇場の最後の歌舞伎は昭和49年5月の「小栗判官」。亡くなった坂田藤十郎さんの扇雀時代、先日亡くなった秀太郎さん、八代目三津五郎さんらの出演でした。
ちょっと飛びますが、昭和33年東京新聞には「ブロードウェイ便り」。登志夫33歳、「ハーバード・エンチン研究所の招きで、演劇研究のため渡米中の早稲田大学講師河竹登志夫氏から、ブロードウェイの近況について次のような便りがあった。写真はミュージカル『西街物語』から」という説明がついています。前にもここであげましたが、「西街物語」とは「ウエストサイドストーリー」のことです。登志夫はこの舞台を大変魅力的に感じ、紹介しました。この芝居を最初に日本に紹介したのは自分だと折に触れ話していました。
こちらも同じ年「アメリカ演劇学会の現状」を朝日新聞に、「マイ・フェア・レディ」のことを東京新聞に寄せています。登志夫はこの留学時代について、「大学の図書館には一度も行かず、とにかく舞台をみまくっていた」というようなことを折に触れ言っていました。こちらは前にも出しましたが、留学出発のとき、空港で見送りの人たちと撮ったものです。この人数…海外へ行くのがまだまだ珍しい時代だったことがわかります。
こちらは同じ年、毎日新聞「ヨーロッパ演劇見てある記」として、留学を終え、北欧、ドイツ、オーストリア、そしてフランスをまわっての所感が。
こちらは、登志夫の仕事としては珍しく、記者のような役をしています。単行本「演劇の座標」にはこの取材のことがもっと詳しくいきさつから書いてありますが、急に東京新聞から頼まれて「欲望という名の電車」で有名なテネシー・ウィリアムズが来日したとき、滞在するホテルのお部屋に自分で直接電話をかけて取材申し込みのアポを取り、ホテルで会って話を聞いています。普通なら東京新聞の社員がアポを取って、ということになりそうですが、登志夫は英語ができたので頼られてしまったのかもしれません。
若いころは登志夫もいろいろな仕事をしていました。頼まれたたくさんの仕事を、その都度、そのための勉強をしてひとつひとつ血肉として、だんだん方向性が決まっていく…。だから依頼された仕事はどんどん受け、どんどんこなしたのでしょう。仕事だけでなく、若い頃ですから私生活でも多くの変化がありました。戦後の反動で飲んで、食べて、社交ダンスもして、フル回転でした。
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