一般短文切抜1より①

登志夫の「切抜帖1」には、1951〜1960年、26歳から35歳にかけての新聞、雑誌などへの掲載記事が貼り込んであります。
写真は、当時の登志夫。昭和26年、「それいゆ」という雑誌の「恋愛について」という座談会に繁俊令息として登場したときの写真です。座談会は渋沢栄一の四男秀雄氏、藤原義江夫人、宮田重雄令嬢とで、登志夫は若い男子代表としての出席ですね。

下の写真にあるのは昭和26年演劇講座月報、演劇博物館復刊三号に「円形劇場について」。この年9月大隈講堂での、日本最初の円形劇場試演についての意義について書いています。70年も前、戦後まだ6年目の登志夫26歳の頃の記事です。今ではこのような形式での上演は珍しくありませんが、その最初の試みのことです。詳しくは「演劇の座標」(後出)に書かれていますが、戦後すぐの事情が垣間見られて興味深いです。実際にやってみると、電源が足りなかったり、電力も足りず2.3 00wの小さなスポット2台を天井の梁に固定して用いたり、観客があまりに近いのでメイクアップもカツラも衣装もごまかせない…などなど。
当時の印刷物は紙も悪く、写真では読みにくいので引用します。
「円形劇場について
 円形劇場というのは、Theatre in the Round 又はRound Theatreの訳なのだが、どうもギリシャの円形場と混同され易い言葉である。北村喜八氏は嘗て『円い劇の場』と訳され、また円内劇場という人もある。が、本場アメリカでもこのほかにFour-wall Theatre(四壁劇場)Penthouse Theatre(囲い劇場)等いろいろの名があり、訳語はいずれも仮称で、特に適切と思われるものがない。さしあたりラウンド・シアターとでも呼んでおいた方がいいかもしれない。
 要するにこれは、円い外形を持つ劇場という意味ではなく、階段状になった整列の観客席で囲まれた中央の平舞台で演技する、上演の形式をいうのである。ワシントン大学の演劇部長グレン・ヒューズ氏が1932年に、学生劇の新機軸を開くべく創始し、今日ではアメリカ各地でさかんに行われている。それには次のような著しい特長、利点があるからである。
 第一に、演劇そのものとして、俳優と観客が非常に近いために、きわめて自然な演技が要求され、従ってむしろ映画に近いリアルな細かい表情、動作が、観客に訴え、生活感情への共感度が高くなること。
 第二に、背景を用いず、完備した劇場を要しないから上演費用も少なく、学生劇、公共劇として甚だ好都合であること。,
 どちらもあらゆる面で行き詰まりを感じている今日の演劇界において、研究し実験し、更に普及するに足る独特な価値を持っている。
 これを日本にも紹介したいという話はかねがねあったようだが、この9月の26,27,28の三日間に、早稲田大学の大隈講堂で最初の試演が行われ、10月3日には同じメンバーにより、愛知県犬山における全国視聴覚教育指導者会議に際して上演された。いずれも関東地区青少年課長のオリバー・ボート氏の指導のもとに、早大芸術科学生及び卒業生が出演したのである。演目は榊原政常作『次郎案山子』と、アメリカの翻訳劇『勇者』各一幕。ボート氏は自ら約20日間早大演劇博物館内の稽古場に赴き、万事に亘り熱心に指導した。
 この試みは各方面に多大の反響を呼んだ。
 もとより初演のこととて、すべてについてさまざまの批判があったのは当然であり、これに携わった私共も、真剣な課題を提供し得たことを知って、努力の無駄でなかったことを喜んだのである。
 だが何よりもまずそれは自分たちの勉強であった。演出者演技者は、自然な演技、ごまかせない扮装、どの方向にも正面を持つという舞台条件などのために、ずいぶん苦心した。幕がないから照明も一段と研究を要したし、道具方も接近した観客の眼に対して最新の注意を払わねばならなかった。そして、ともかくも第一回の試演は実現したのである。
しかし、わが国におけるこの運動の成否は、今後の研究と実行にかかっている。脚本の選び方からメークアップ、照明、実演場の設備等に亘って、まだ沢山の問題が残されている
 先にあげた二つの特長は、特に将来の学校劇、地方公共劇に、円形劇場の可能性の大きいことを示している。手軽で有力な劇形式の一つとして、これを機にますます研究され普及さるべきだと私はこの機に当たって実感した。一人でも多くに、その実体を知らせたいものだと思う。」
この第1回目の公演で登志夫は舞台監督兼制作助手と雑用係を引き受けていました。


こちらは第二回のときの写真です。この時は全部、学生・卒業生の手で行われました。「赭い面」は日本式の炉端と土間を舞台とする新しい試みでした。写真で見るとその当時の様子がよくわかります。


出演者、主催者たちと。登志夫は中段一番左。

円形劇場については、この「演劇の座標」(1959年刊)に詳しく記述があります。この本はこの頃雑誌などに掲載された研究をまとめたもので、難しそうな外見とタイトルですが、中身はいろいろなテーマに分かれており、意外に読み易いものです。


「切抜帳」次のページは翌年「スクリーンステージ」紙に前進座公演の観劇記。

「(吉祥寺の本拠内稽古場公演に)下足をあずけて入ると、定員五百人の畳敷きの客席には老若男女がひしめいている。近辺の勤労者、商店街および農村の人が多く、近県巡演が機となって、はるばる見に来る人もあるという。その雰囲気は当然、小劇場的というにはあまりに庶民的で、むしろ桟敷なしの平土間だけという感じ。都心の大劇場出演を抛棄して独自の道を開拓しつつある前進座として、これは着実な歩みだと思われる」

 この頃の前進座の盛況ぶりがうかがえます。同じページの下の記事はその数か月後の観劇記。27歳の登志夫が苦言を呈しています。
「困難な生活条件の中での奮闘は充分わかるが、何としても舞台がすさんでいる。イデオロギーと常套的涙腺刺戟法で正直な大衆の拍手を迎える個所はあっても、しんから唸らせ共感させる劇的感動と情調がない。(中略)大衆の現段階に迎合せず舞台芸術による文化向上こそ第一義として意識してほしい。前進座全体への念願である」


こちらは翌昭和29年「毎日中学生新聞」に顔見世のこと、「暫」や團十郎家などについて、子供向けに易しく語りかけるように書いています。
前ページと同じシリーズで黙阿弥の「弁天小僧」について。それにしても、活字の大きさは今の4分の1です。この頃から死ぬまで、いったいどれだけの黙阿弥の名セリフについて書いたことでしょう。

ちなみに…登志夫の処女出版「日本の芸能」は、昭和28年に福村書店から出版されました。副題は「ぼくらの文化財」。この本で写真をたくさん使って子供に分かるように日本の芸能について解説しているので、毎日新聞からこの企画への執筆依頼がきたのでしょう。カバーの写真が十五世市村羽左衛門と七世松本幸四郎、表紙は五世中村福助です。


以上、切抜1からのピックアップでした。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)