昭和史になった渡米歌舞伎


半藤一利編「歴史探偵団がゆく 昭和史が面白い」(平成9年/文藝春秋社刊)が、渡米歌舞伎36年後に出版されました。
目次は2・26事件、東京裁判、引き揚げ、婦人代議士第一号、紅白歌合戦創世記、数寄屋橋君の名は、美智子妃誕生、赤線廃止、この次に「世界を魅惑したグランド・カブキ」、次がオリンピック、と続きます。
このときの渡米歌舞伎が戦後間もない昭和の歴史として位置づけられています。
半藤氏が聞き役で、永山武臣氏、登志夫が思い出を語っています。抜粋してみます。

半藤「資料を見ますと、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコの3ケ所で興行があった。
主だった役者が全員行っているのがすごい。
勘三郎、松緑、歌右衛門、又五郎。俳優24名でさらに音楽18名、大道具2名、医者や看護婦まで入って…、総勢64名。大変な数ですね。河竹さんは文芸顧問、永山さんは事務局長として。」
永山「ニューヨークではブロードウェイのシティー・センターで3週間の興行でした。私はなぜか今もその時の毎日の食事代を覚えている。歌右衛門、勘三郎、松緑が15ドル、中間の役者は7ドル。われわれが4ドル。1ドル360円の時代ですから…。」
半藤「4ドルで1500円くらい。」
永山「ニューヨークはホテルも良かったし日本人の方がたくさんいて差し入れをしてくれるんで、そう文句も出なかったんですよ。ところがロスに行ったらこれが汚いホテルで、歌右衛門さんら幹部が不機嫌で参りましたよ。劇場は1500人入る野外劇場で、ここで2週間やりました。」
半藤「アメリカ人は生まれて初めて歌舞伎を見るわけですよね。どういうふうに評価されるか不安はなかったですか。」
永山「そりゃ不安でした。最初シティー・センターで『王様と私』を見たときに、ああ、背丈も不揃いな日本人がこんなニューヨークの真ん中で歌舞伎なんてやって大丈夫かなと思った。島国の郷土芸能持ってきたなんて思われるんじゃないか(笑)。」
半藤「あの扮装を見ると民族衣装だと思ったりして。」
河竹「ハハハハ」
半藤「現地の新聞の劇評はどうだったんですか。」
河竹「とにかくね、初日の翌朝第1刷りで全部の新聞に劇評が載るんです。当時は今よりも非常に厳しい評が載る時代でした。全新聞社の劇評家が見に来ているわけ。確かニューヨーク公演6月2日の初日の開演が遅れたんですが、あれは『ニューヨーク・タイムズ』のブルックス・アトキンソンという劇評家が到着するのを待っていたんですよね。」
永山「第一級の劇評家で、この人が来ないとはじめられない。それほど絶大な権威がある。」
河竹「この劇評が悪ければ、もうお先真っ暗なんです。劇評家たちは翌朝未明に出る刷りに書くわけですから、だいたい最後の幕まで見ないで帰るんですよ。で、公演が終わった後、僕と永山さんと伊藤祐二さんて方、この3人でブロードウェイのバーに行ってね。そこは劇評家や演出家、役者が集まる特別のバーで、そこへ詰めて飲みながら朝刊を待っているわけだ。」
半藤「なるほど。その評いかんでアメリカ公演の運命が決まる。」
永山「いよいよ『ニューヨーク・タイムズ』の早刷りが届いて真っ先に伊藤さんが読んだ。それを河竹さんにポンと渡して『永山さん、これ、もう明日から遊んでてもいいよ』って僕に言うの。すごくいい批評だ、これで大成功は間違いないって。」
河竹「私はそれを徹夜で訳した。ブロードウェイはその時ストライキでね。他の劇場が真っ暗な中、たったひとつ光を灯してくれたのは歌舞伎だ、と言う出だしで…。」
永山「河竹さんの訳が名文なんです。インクを流したような真っ黒な劇場街に、ひとつ光を掲げるものーそれは昨夜シテイ・センターで開幕したグランド・カブキである。」
半藤「暗記してる!印象深かったのですね(笑)。」
永山「それはもう大変に感動しましたよ。それだけいい批評書いてもらったんで、その後の公演は連日超満員、大成功でした。はからずもそのころ、日本は安保闘争の真っ最中だったんですよね。」
半藤「あ、そうか!ちょうど6月。」
永山「アトキンソンが再度劇評を寄せて、(我々と日本の政治的関係が不快かつ痛恨事でさえあるこの時に当たって、中略 カブキ団は我々に、豊かな、非個人的な、時と所を超越した芸術をもたらした)と書いている。これも河竹先生の名訳。」
河竹「(演劇は政治よりも礼法を心得ている)とも言ってましたね。」
半藤「しかし、河竹先生、一晩で2つも3つも劇評を日本語訳するのはずいぶん大変だったでしょう。」
河竹「若かったからできたと思います(笑)。永山さんは当時34歳、私は35歳。僕はとにかく解説、劇評の翻訳、反響の調査と日本への報道だけをやってその他の興行関係には一切タッチしないと言う約束だったから、専用の部屋でひたすら訳してましたね。そういうふうに職務をはっきり分けてたからこそ、今まで12回も一緒に行けたんでしょう。」

永山「本当にそうなんです。だから僕がもう役者の調整とか交渉にくたびれて、何をするにも面倒になると『ちょっと寝かしてくれ』って河竹さんの部屋に行って休んだりしてましたね。」

半藤「しかしそれだけの大御所を含む1団をひと月以上統率するのは並たいていじゃなかったでしょう。」
永山「歌舞伎の世界は俳優さん中心で、陰湿な差別がまかり通っているイメージでしたよね、当時。ちょうど訪米の前年に僕、大谷さんから楽屋の不平等性を改革しろと言われてたの。だからこのアメリカ公演の時は軍隊式を採用したんです。班を編成する。役者グループの班長、義太夫の班長、長唄、地方、と全部班長を決めて、お金を渡すのも班長に渡す。後は全部平等にしまして、特別な事情がない限りはみんなで一緒のバスで移動して。ずいぶんこれで開放的になった。」
河竹「永山さんはとにかくガムシャラに働いた。それが役者さんやスタッフの信頼を得たんです。」
半藤「それは革命的なことでしたね。大幹部の方々もよく納得して…。」
永山「最初にやったからうまくいったんです。偶然にもできた。それが現在でも続いていますよ」
この後、翌年のソ連での観客総立ちで、怒号のような20回にも及ぶカーテンコールの話などに続いていきます。
渡米歌舞伎の5年後のヨーロッパ公演もまた大成功で、歌舞伎の国際評価は定まったと言って良いでしょう。
永山氏は「その後はもう怖いものナシになりました。とにかく海外公演は大変なんだけど、でも俳優さんにとっても、外国人の客と接すると言うのは魅力なんです。真剣に見てくれて、皆が心から拍手してくれる。我々は本当に大切なことをやっているんだと言う自覚が持てた。団結して素晴らしい思い出になるんですね。」
当時の歌舞伎は団体客が大半で、歌舞伎滅亡論などが出る位で、どうやって続けていくかを模索している時代でした。海外で成功だったと言っても信じない人がまだたくさんいました。しかしこの外国での成功の手ごたえが、歌舞伎に携わる人々の自信となり、「歌舞伎は旅する大使館」と言うキャッチフレーズができるまでになり、たびたび外国公演ができるようになりました。この戦後初の渡米歌舞伎が日本にも明るい火を灯してくれたようでした。
写真は、1976年、松竹のパーティーで。右から登志夫と永山武臣氏、城戸四郎氏。最初の訪米公演から16年後。城戸四郎氏は昭和3年(1928)の市川左団次訪ソ歌舞伎の団長を務めました。
 

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)