登志夫の切抜帳、最初の貼り込み
これは、HPにあるリストでも一番古いものとされている文章。昭和12年6月、登志夫12歳で中学校1年生、「旧師へ」という題で「成城だより」という成城中学校の発行した印刷物のようです。小学校でお世話になった先生への便りという形式で書かれています。通学途中に見える富士を見て、「大和魂の現れ」だと感じ、「こんな気高く美しい心を持ちたい」と思っています。公表する文章ですから、全部が本気で思ったいたかはわかりませんが…。
これは、登志夫が死ぬまで捨てていなかった、子供のころ好きでずっと読んでいた雑誌「少年倶楽部」の付録「僕等の模範文」。登志夫はこういうものも参考にしていたのではないでしょうか。
これは裏表紙の広告です。双子が向き合っているかのような、個性を出しにくい髪型と制服。
奥付に、「昭和12年4月発行」とありますので、ちょうどこの「旧師へ」を書いた時期と重なります。左の絵の具の広告は軍隊がモデルになっています。
ちなみに、中身は軍隊賛美ばかりではありませんが、ちょくちょく出てきます。
表紙裏は水兵さんがモデルの広告。さっきのトンボ鉛筆は今もあると思いますが、ヨット鉛筆は聞いたことがありません。
当時の雰囲気がわかる気がするので、子供たちの優秀作品のタイトルが掲載されている目次を揚げて見ます。
こちらの左ページ、「兎狩」は、徳富蘆花が本名徳富健次郎で出版した本「思出の記」(1907年・明治40年)からの抜粋のようです。挿絵を見た限り、制服を着た大勢の学生が一匹のウサギを寄ってたかって狩っている様子ですが、学校行事だったのか、放課後の娯楽だったのか。今の小学校の教材には向かない気がします。
この本に書かれている「作文が上手になる心得五箇条」は、
「物事をよく見ること」「自分の心持を大胆にお書きなさい」「自分の言葉で、分かり易く書くこと」「自分の文は、自分で磨きませう」「ひとの文を読んで味はひなさい」。
案外、登志夫の中学生の頃の柔らかい脳みそにインプットされ、生涯心得として持っていたのではないかと思われます。登志夫はいつも、難しいことを難しく書くのは簡単だが、易しく書くのが難しい、と言っていました。きっと愛着があって、この付録を残しておいたのだと思うと捨てられません。掲載された子供たちの作文は、ほのぼのしたいまとかわらないような日常風景も面白いですし、この頃の子供が教え込まれた戦前の軍国主義の考えが叩き込まれているものも多くみられ、なんとも言えないむなしさも感じられます。「旧師へ」の登志夫の文章に出てくる「大和魂」もそんな当時の教育を素直に信じていた心の現れでしょう。
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