今日は登志夫の8回目の命日。翌日の訃報。
8年前の今日、5月6日は、とてもいいお天気でした。連休で毎日家族が入れ替わり立ち替わり訪れ、なくなる前日の5日も賑やかに過ごしました。この日、夜の9時頃からNHKで歌舞伎座新開場の番組を放映しましたので、登志夫はそれを最後まで熱心に見ていました。登志夫がベッドに横たわり、うつらうつらとし始めたのでじゃあ帰るね、また明日、と言って扉を閉めたのが、家族が見た最後の登志夫でした。病院を出たのは夜10時過ぎだったので、翌日は午後から病院に行くつもりでした。この日、初めて輸血をして、まだこれから1週間は大丈夫、と言われていました。
翌日、午前中に登志夫から良子に電話があり、今日は来る?と聞いてきたので、良子が行くわよ、待っててねと答えると、じゃあ気をつけて、ありがとうと安心した声で切れました。これが登志夫と良子の最後の会話になりました。次女は、なぜかこの朝、いまや存在しない黒電話が鳴る音で目が覚め、なにかの予兆のような、なんとなくいやな感じがしました。
それからまもなく病院から電話があり、家族はそれぞれ病院に駆けつけましたが、そのときには呼吸器はつけていてまだあたたかかったものの、意識はなく、呼吸もしていませんでした。その顔は、もうすべてから解放された、見たことのない安らかな表情で、微笑んでいるように見えました。
次女と三女は、登志夫を迎え入れる準備をするため、ふたりで先に車で家に向いましたが、大きな交差点で進入禁止だか、右折禁止だか、なにか間違えてしまい、交番から止まるように指示されてしまいました。ふたりで大泣きしながらの帰途でしたので、運転していた三女はそのままのテンションで交番へ入り、事情を説明しました。すると、その担当の方は、ご自分も最近奥さんを亡くし、辛い思いをしたからよくわかる、でも気をつけなさいよ、と言ってそのまま見逃してくれました。なぜかそんなことをよく覚えています。
登志夫が病院を引き上げる時は、若い看護師さん達が目にいっぱい涙を溜めて並んで見送ってくれ、初夏の晴天が転じた雷雨の中を出発しました。
登志夫が部屋に戻ったあとは、理事長をしていた都民劇場の方や、信頼していた松竹の方がきてくださり、一緒に葬儀社と相談して通夜や告別式の日取りや弔辞をお願いする方を決めたりしました。
写真は翌日の夕刊一般紙の一部です。
今年は5月3日に源通寺へお墓参りをしました。夜中にずいぶん雨が降ったせいか、お墓の汚れがずいぶんきれいに取れました。
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