お葬式前夜

登志夫は亡くなる2、3年前から蔵書、資料、果ては収集した蛙などの行先、逗子の家、黙阿弥の灯籠、妻が1人で住むところまで、自分の亡き後に家族が困らないように妻と話し合って決めてありました。その一環で遺言書も、医療関係者への延命治療ご無用のお願いも書いて、妻に渡してありました。
しかし、お葬式の事だけは何度か妻と話しあいましたが、結論が出ていませんでした。
黙阿弥の、本葬は出すなと言う遺言は有名ですが、実は死の3年前に次女島が34歳の若さで結核でなくなった時、人に迷惑をかけることを何よりも嫌った黙阿弥が「俺の生き弔いだ」と言って盛大な葬式を出したのです。葬列は十余町に及んだと言います。
黙阿弥がいよいよ自分の死期を悟った時、1通目の遺言状には本葬をと書き、3通目にいろいろな迷いを削って、簡潔に、本葬を出すなと言う遺言状になったそうです。
次女の本葬で、自分の分も済んでいる、これ以上人に迷惑かけず、あとは女だけの家に余計な出費をかけさせまいという最後の心やりであったそうです。
河竹家の養嗣子の繁俊が亡くなったとき、このことを踏まえて、本葬は出すなという遺言がありました。登志夫夫婦は通夜からその方針で進めましたが、亡くなるすぐ前に文化功労者の発表があり、お祝いと弔意が交錯したり、自宅での通夜の席で、香典は辞退するという趣旨をわかっていただけず、受付で怒って帰る弔問客があったりしました。通夜も大変な弔問客になってしまったので、葬儀委員長の決断でその頃まだ辺鄙だった成城より都心の青山葬儀場でということに決まり、繁俊の遺言は果たされませんでした。
繁俊のことがあってから、折に触れて夫婦で考えましたが、いろいろなやり方の長短があって、決めかねていたのです。登志夫は家族や周りが1番良いようにと言う心づもりだったのです。
登志夫が信頼していた松竹の方や都民劇場の方がいろいろ一緒に考えてくださって、大方の弔意を一番すんなりありがたくお受けする方法として、やはり繁俊と同じ青山で葬儀をしよう、ということになりました。
葬儀場の都合で9日通夜、10日告別式と決めたのは、どちらか都合の良い日に来ていただければと考えてのことだったのですが、2日ともいらしてくださる方があったりでかえってご迷惑をかけてしまいました。
登志夫は6日7日8日と、葬儀まで自分の書斎で家族と一緒ににぎやかに過ごしました。その間訃報が出るとたくさんの枕花が届けられ、書斎は清らかな香りに包まれ、その部屋には長年の妻公認のガールフレンドの藤村志保さんや松井今朝子さん、お仲人をしたご夫婦や卒業生の方々が別れを惜しみに来てくださいました。志保さんが2 LDKのささやかなマンションをご覧になり、お二人の愛の巣って感じね、と何度もおっしゃっていたのを覚えています。
棺桶が楽に出せるように逗子の家には大きな玄関を作りましたが、予定通りには運ばず小さなマンションが最後の門出?となりましたので、登志夫は苦笑したでしょう。
登志夫の書斎に置かれた枕花です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)