歌舞伎座手打式以後、最後の日々②/尊厳死希望の書面
2013年3月28日、歌舞伎座新開場手打式が終わり、半月後、前年の7月に手術を受けた日赤病院に再入院しました。寝台付タクシーで病院まで行きました。登志夫は、自分から入院させてほしい、と医者に伝えていました。うちで良子とふたり、普通の生活をするのはもう痛みが限界だと感じていたからでしょう。
入院してからは、元気づけようと、顔寄のときの紋付袴の写真を壁に飾りました。退院したら、起き上がりやすい電動ベッドをレンタルしようと機種を話し合ったり、口述筆記できるよう、新しいICレコーダーを買って試したりしました。最後まで気にかけていたのは、高橋陸郎さんから頼まれていた、亡くなった先代雀右衛門さんのことを書く原稿のことでした。
良子が、医師から「命にかかわる」状態になってしまったと聞いたのは入院から一週間もたってからだったでしょうか。
登志夫はかねてから、延命治療を辞退する内容の書面を準備していました。
「医療関係者各位 お願いの事。
自然死またはそれに準ずる尊厳死を望みます。その為、重篤な状態となり回復の見込みがなくなった時は、
1.苦痛の除去、緩和には最善の処置を願います。
1.その他の「延命治療」は一切施さないでください。」
登志夫の回復に望みが薄くなったとき、家族は医師にこの書面を渡し、関係する先生方に共有してもらうことにしました。書面はすぐにパソコンにデータとして取り込まれ、共有されたので、家族もすこし安心しました。医師も安心したように見えました。
頭も、内臓も元気だっただけに、日赤に再入院してからみるみるうちに色々な器官が壊れていく様子を医者から聞き、また目の当たりにして、呆然とするばかりでした。
登志夫は淡々と、言われるままによい患者として過ごしました。点滴をしすぎて、針をさせなくなったときは、「どうしよう。」と看護師さんを笑わせたり、亡くなる2、3日前にはベッドでリハビリを受け、洗髪もしてもらいました。
ずいぶん悪くなってからも、面白い表情をみせて場を和まそうとするので、「お父さんはおもしろいね」というと、阿波踊りを踊るような手ぶりをみせてくれたりして家族を笑わせました。
血圧は40くらいに下がり、特大の酸素吸入器をつけられました。一度、「生の空気が吸いたい」と、自分でそれをはずしたことがありましたが、すぐに看護師さんが飛んできました。
せめてもの楽しみをと、嚥下の失敗の心配のないよう、霧吹きで好きなエビスビールを口に入れたりしました。晩年は、純米吟醸酒がお気に入りでしたが、最後に希望したのはビールでした。ごくりと飲めるわけではないので、匂いだけですが、うまい、と喜んでくれたのは娘として最後の親孝行になりました。
妻、娘の家族たちは、順番を決めたわけでもなく、4月中も誰かしらが毎日訪れ、5月の連休中はとくに病室はいつも賑やかでした。みんなでふくらはぎや腕をさすってあげると、「ああ、いまいきたいね」と言うので、ふざけた感じを装って「言い残したいことはあるの?」と聞くと、「それぞれに、ありがとう」と、きっと考えていた言葉を口にしました。
演劇界の連載はしばらく休むことを家族に伝えましたが、緩和ケアで、痛みから解放され、診にきた先生に、「痛みがなくなったので、もう退院していいですか」と聞いたりしていました。
登志夫が自分の死が迫っていたことを知っていたか、気づかずいてくれたかは、わかりません。登志夫の父繁俊も、自分の病気について家族に聞かなかったそうです。登志夫は、自分もそうしようとかねてから思っていたのだと思います。
5月6日、連休最後の日に眠るように息を引き取りました。登志夫の死亡届に病院が記載した死因は、「感染性心内膜炎」でした。入院直後、脊椎の化膿に施術をしたときの感染ではないかと家族は思っています。
高齢での手術は麻酔によるせん妄や、感染症の危険と隣り合わせだということはよくわかっていましたが、前年の脊柱管狭窄症の手術が無事終わり、状況が良くなっていくばかりだと思っていましたので、この入院でどんどん事態が悪化して命までとられてしまうとはまさか思っていませんでした。88歳での死は、大往生で未練もなさそうに思われがちですが、危険を冒して手術をしたのは、脚を治してよりよく生きるためでしたので、まだまだ本人も家族も欲がありました。みんなが満足いく死などないですね。とりとめもなく亡くなったころの思い出を書きましたが、あれからもう8年たつとは、深く記憶に残る出来事というのは、つい昨日のことのように感じるものなのでしょうか。
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