歌舞伎座手打式以後、最後の日々①/妻良子の手記

登志夫の生前に、「演劇界」に連載したエッセイと日経新聞に連載した「私の履歴書」をまとめて1冊にして出版するということを大まかに演劇出版社と決めてありました。ところが没後、本にまとめたいという時になったところで、出版社の人事異動があったり、様々な理由で注文販売という形での出版になりました。登志夫の没後二年半後の2015年11月に、単行本「かぶき曼陀羅」は刊行されました。
書名は「演劇界」のエッセイの題です。装丁は登志夫のイラストに良子が色をつけたものを使い、それぞれの項に連載当初の登志夫の手書きの挿絵が入っています。最後に収録されている随筆が絶筆になりましたが、担当の大木夏子さんが力を尽くしてくださって、楽しい良い本になりました。88年の生涯の正直な悲喜こもごもが語られ、「私の履歴書」の行間を埋める自叙伝の計画や、いつの間にか家にたくさん集まったカエルについての「蛙の本」を書く夢なども書かれています。
まだまだ死んだりする予定ではなく、書斎には、そのための資料が山積みになっていました。凡俗の身をよしとし、若い時代のヰタ・セクスアリスを含めた赤裸々な「続 作者の家」と言うべき本を書く予定でいました。最初のページは、戦後すぐの新宿西口あたりを追われて行く何人もの男娼の行列を見ているシーンから、と決めていました。
登志夫の亡くなるまでの2年間の経緯をこの「かぶき曼陀羅」の「あとがきに代えて」に妻良子が書いていますので、全文を記載します。


「雑誌『演劇界』に2007年9月号から2013年の7月号まで、六年間にわたって連載した『かぶき曼陀羅』71篇と、2010年5月1日から31日まで、日本経済新聞に連載した『私の履歴書』を加えて、94冊目となるこの著書が生まれました。

 東京に居を移しての治療も効なく、腰部脊柱管狭窄症の痛みに悩まされる日々でした。2012年6月、広尾の日赤病院で日赤式椎弓形成術という手術を受けました。狭心症のため諦めていましたが、心臓シンチグラフィの検査にOKが出た日、メモに大きく”晴朗の気”と書いて、再出発を期していました。

 術後のリハビリに励む矢先の秋、思いがけず、薬の副作用ともいうべき大腸憩室出血にみまわれ、二十日余りの入院、絶食、安静でだいぶ体力筋力を消耗してしまいました。

 明けて2013年の1月からは歌舞伎座開場に向けてのNHKや新聞雑誌各社からのさまざまな依頼を何とかこなし、やっと3月28日の『杮葺落興行古式顔寄せ手打式』を迎えました。腰痛に加え、手はしびれ、足はこわいほどむくんでおり、奉書を取り落とした時に備えて全部暗記して臨みました。体力の限界ぎりぎりの日に口上読み上げの大役を果したことになりました。

 翌日から起き上がるのも困難になり、半月後には化膿性脊椎炎による激痛で、寝台タクシーでの再入院となりました。夫の脊椎についた菌には現在ある四十二種の抗生物質はすべて効かず、なすすべもなく最後の一週間は緩和ケアになり、やっと長年の痛みから解放されました。

 ナースが来ないか夫が目で見張り、娘が急いで霧吹きのビールを口に吹きこむと『ウマイ!!』と目を細くして笑い合ったりします。そんな時は、五十年前に永代橋で死ぬまで離れるなと言ってくれた人との別れの覚悟が鈍りました。

 五月五日の晴れ渡った空を『きれいだネ』と心ゆくまで眺めていましたが、胸に去来するものを見ていたのでしょう。翌日、昼寝でもするように、やさしい笑顔のまま永い眠りにつきました。夫に御縁をくださいましたすべての皆様ありがとうございました。

 演劇出版社の新村清美さん、また連載と本書刊行に細心の配慮をつくしてくださいました大木夏子さんに心から感謝申し上げます。

 日本経済新聞社の平田浩司さんには、夫の多事多難だった人生を振り返り、纏めるまたとない機会を与えていただき、本当にありがとうございました。」

写真は2012年7月最初の手術の時、日赤病院で良子と。手術を控えての「晴朗の気」。明るい表情。

河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)