歌舞伎座新装開場から8年②手打式の裏側


登志夫が長いこと苦しんだ脊柱管狭窄症は、いろいろな療法をためしましたが、よくはならず、ついにその道では有名な医者に勧められ、希望をもって手術に踏み切りました。麻酔のため、そのまま認知症になったり、感染症の危険があるなど、87歳での手術は、本人も家族も勇気が必要でしたが、それまでの様々な治療に希望が持てなくなった果ての、最後の選択肢でした。
術後、幸い脳には異状なく、足のしびれもなくなったものの、弱った足腰にはそう簡単に筋肉がつくわけもなく、つらい日々が続きました。翌年に控えた歌舞伎座新装開場での顔寄手打ち式の役目を果たすのを目標に定めての体調管理は神経を使うものでした。
歌舞伎座新開場の年は、黙阿弥没後120年でもあり、公演筋書はじめ、新聞や雑誌、テレビなどの取材依頼もあり、気が抜けなかったのはかえってよかったのかもしれません。なんとか冬を越し、その日を迎えることができました。登志夫の死後に出た著書『かぶき曼陀羅』のあとがきに、妻良子がこの日のことを書いていますので引用します。

「明けて2013年の1月からは歌舞伎座開場に向けてのNHKや新聞雑誌各社からの様々な依頼をなんとかこなし、やっと3月28日の柿葺落興行古式顔寄せ手打式を迎えました。腰痛に加え、手はしびれ、足は怖いほどむくんでおり、奉書を取り落としたときに備えて全部暗記して臨みました。体力の限界ぎりぎりの日に口上読み上げの大役を果たしたことになりました。
 翌日から起き上がるのも困難になり、半月後には化膿性脊椎炎による激痛で、寝台タクシーでの再入院となりました。」
写真は、控室で衣裳を着せてもらったあとです。
同い年の長谷川勘兵衞さんと談笑。勘兵衞さんは、杖をお持ちですが、必要ないくらい足腰がお丈夫でした。今もご健在で、素晴らしいことです。
そういえば、舞台に上がる前、舞台の袖で仁左衛門さんと一緒になり、親しくお話する中で(といっても、登志夫はそんなに心の余裕がありませんでしたが)、車椅子の登志夫を見て、「先生、ワルイことしたから」と、笑い話をされたのをおぼえています。もちろん、深刻な状況だとご存知なく、親しみのこもった冗談で出番前の空気を和ませてくださったので、今もあたたかい気持ちで思い出します。
そして、ついに迎えた本番、歌舞伎関係者勢揃いの絵になる舞台面は、各紙、各局報道されました。この時の登志夫の写真は、引き伸ばして病室の壁に掛けましたが、もっと大きく引き伸ばせばよかったと、すこし後悔しています。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)