黙阿弥の碑①黙阿弥住居跡

浅草を散歩すると、黙阿弥の碑がふたつ見つかります。ひとつは「河竹黙阿弥翁住居跡の碑」です。雷門をくぐり、仲見世のメイン通りを浅草寺に向って、一本右の通りを歩いて行くと、右手に仲見世会館というところがあり(いまもこの写真のように、外からお神輿が見られます)、この前に立っています。

1990(平成4)年10月28日に除幕式が行われました。もう30年も前になるのですね。この写真にいるのは、左から登志夫、勘九郎さん、萬次郎さん、八十助さんです。猿若三座の座元の子孫ということで発起人となり、出席されています。みなさんお若いです。登志夫は65歳、この頃はこんな顔だったのか、と改めてその時代の登志夫と再会したような気分です。

登志夫による説明書です。当初はこんなに鮮やかにはっきり読めたのですね。
それぞれスピーチ。
それから30年。いまでは、長年の風雨にさらされて、こんなふうに。説明文は二段になり、下の段には英文がついています。
写真だと、なかなか判読困難です。現物は、角度を調節すれば読めます。
こちらの出来立てとくらべれば、30年という日々を共有してきた愛着のようなものは感じますね。

このことを、登志夫は雑誌「東京人」(1991年1月号)に書いていますので少し引用します。

「黙阿弥が芝金杉から浅草正智院地内に移ったのは弘化元年(1844)すなわち守田座移転の翌年から、同三年までの間と推定される。明らかに三座移転”に伴っての行動にちがいない。なお、出勤の座が河原崎座とあるのは、守田座の別名である。三座はそれぞれ、興行上資金調達のため、いつでも名義を肩代わりできる別の座名座元を用意していた。これを”控え櫓”という。河原崎座は守田座の控之櫓名だったのだ。

黙阿弥がその実力を最大に発揮したのは、この猿若三座時代だった。今回の『住居跡之碑』建立は、浅草観光連盟、仲見世商店会、浅草の会など地元の人びとの発起で実現したのだが、発起人のなかに中村勘九郎、市村萬次郎、坂東八十助のスター三丈が加わっているのは、それぞれ中村勘三郎、市村羽左衛門、守田勘彌という、黙阿弥にもっとも縁の深かった猿若三座の座元の後裔だからにほかならない。(略)

さて明治になってまもなく、猿若三座時代は終る。同五年、守田座が新しい東京の都市計画を大久保利通からひそかに聞き出し、新富町に進出したのがその先駆であった。この年に政府は『芸人俳優を教部省の監督下におく』にはじまり、エログロ禁止を旨とする脚本検閲制度、王政復古に呼応する忠孝鼓吹の歴史劇、それも史実尊重実名主義のいわゆる『活歴劇』奨励、等々の改革令を矢継早に布告する。(略)

ともかくこうして明治五年以後、歌舞伎の中心は浅草を離れていく。

しかし黙阿弥は浅草から動かなかった。五十三歳という年齢もあったろうし、深謀遠慮から軽々に世に追従することを好まなかったのでもあろう。が、何よりも彼は三十年間住み馴れ、書きつづけてきたこの浅草の地とその家とに、離れがたい愛着を抱いていたからではなかったろうか。新開の東京繁華街より、江戸情緒をとどめる浅草界隈のほうが、江戸人黙阿弥の生理に合ったのである。(略)

明治二十年七十二歳のとき、長年住んだ浅草の家を高弟三世新七にゆずり、閑静な本所南二葉町に隠棲した。(略)とにかくここまでが黙阿弥の浅草時代で、あとはこの本所で執筆をつづけながら静かな余生を送り、明治二十六年一月二十二日、脳溢血で大往生をとげた。」

もともとは吉原も、中村座、市村座も今の人形町付近にありました。吉原は芝居よりずっと先に新吉原に移動させられていましたが、天保の改革後、芝居も新吉原の隣に移転となり、それにともなって黙阿弥や芝居関係者もぞろぞろと移動したわけです。

それにしても、このように、幕末から興行をともに作り上げた人たちの後裔が顔を揃えるなんて、御先祖様たちも面白がったことでしょう。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)