黙阿弥の碑②浅草神社境内の、顕彰碑
浅草で見つかる黙阿弥の碑、もうひとつは浅草神社にある碑です。こちらはだいぶ古くなり、1968(昭和43)年の10月22日に除幕式が行われたものです。43歳の登志夫です。
この顕彰碑のことは、登志夫が著書『作者の家』で、繁俊が亡くなった後、この長い物語の最後の最後をしめくくる題材としていますので、引用します。
「もうひとつは、これより前、父の逝った翌昭和四十三年十月に、台東区の東京百年記念事業のひとつとして、浅草神社いわゆる三社様の境内に、『河竹黙阿弥顕彰碑』が建てられたことである。
浅草は、かつて猿若三座がさかえた歌舞伎ゆかりの地であることは、いうまでもない。境内にはすでに先代吉右衛門や、久保田万太郎の句碑などもある。
が、ことに黙阿弥はこの神社から目と鼻の浅草寺子院正智院の境内に、四十余年住んで代表作のほとんどをここで書いたのだから、いちばん因縁がふかいといえるかもしれない。
二天門のほうから入ると、社殿に向って左側にその黒御影石の碑が建っているが、そこに名を刻まれている当時の区長上条貢氏は、たいへん熱心にこの建碑の陣頭指揮をされたときいている。ありがたいことである。
黙阿弥の命日にちなんで、除幕の式は十月二十二日におこなわれた。
上条区長はじめ関係者多数が参列し、劇界からは代表として日本俳優協会会長の三代目市川左團次が出席、区長の挨拶につづいて祝辞をのべてくれた。
私の家族は全員お招きを受けたが、母は老体なので、その年の五月七日に生れたばかりの次女とともに家にのこり、私たち夫婦と長女、それに妻の実家の両親が参上した。
黙阿弥の玄孫にあたる長女はかぞえて四歳。三女は翌年五月七日、次女とおなじ月日、の誕生日を期して、妻の胎内にあった。
除幕は、妻に手をひかれた長女によって、おこなわれた。
晩年にやさしくつくしてくれた嫁と、口達者でよろこばせた孫娘のその様子をみて、父も満足だったことだろう。父の逝った日とおなじく、空気はつめたかったが、さわやかな秋の朝であった。
境内の砂利を踏んで帰りながら、父の死ぬ十日ほどまえ、文化功労者の伝達式の前夜、最後の晩餐をして一家中で祝ったときのことが、ふと瞼に浮かんだ。
そうして、食事のあとで、もうききとりにくいことばではあったが、
『まア、これで河竹の家も、よかったということかな』
と、肩の荷をおろしたように、ほっと息をついてつぶやいた父の一言を、おもいだしていた。」
これが、文庫で二冊にわたる長編『作者の家』の末尾です。登志夫も、この文章を書き終えて、同じように、ほっと肩の荷を下ろしたのだろうと、引用しながら思います。
妻良子と長女。遠くで笑っているのが深川牡丹町に住んでいた良子の母。
除幕式の模様は、テレビでも放映されました。
こちらは現在の様子。浅草寺と比べるとずっと人が少なくお参りしやすいです。
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