逍遙の描いた雛人形は、『変化雛』

この可愛らしい雛人形の絵は、逍遙から繁俊がもらったものです。
「恋にはうとき顔ながら
離れぬ仲は 糊細工
しゃちこばったる
窮屈を しのびかね言 ささめごと」
と書かれています。

繁俊の著書『人間坪内逍遙』の中の「墨蹟のこと」という文章中に、逍遙の絵について書いたものがあります。
「(略)逍遙が絵を画きはじめたのは、震災後のことのように思われるが、特に大正十四年の大患(肺炎)後、静養を余儀なくされた時、雙柿舎でつれずれのまま絵筆に親しんだのだと想像される。
たしか十四年の五月頃、自分としては初めて雙柿舎へお見舞かたがた参上した。その前年の暮に年寄(※黙阿弥の長女・糸女のこと)を見送ってから、はじめてお目にかかったのでもあったが、静養中の先生は、ほんとうに悦ばれた。わざわざ写真師を呼んで、庭園の老柿樹のもとで一しょに記念写真をうつした。(先生はいったい写真がお好きだった。)
それからおヒルには奥さんもご一しょに熱海ホテルへ出かけてご馳走になり、その足で熱海駅から帰京するつもりのところ、(後年の箱根ドライブの時も思い合せれるが、)どうしても一晩雙柿舎へとまって行きたまえと、熱心におすすめ下さる、直ぐに電報をウチへ打ちたまえということになり、郵便局へ連れて行って下さって電報を打ち、結局雙柿舎の二階にとめていただいた。
その時である。いよいよ、とまることとなってお座敷へくつろいだ時に、ツと立った先生が地袋戸棚をあけて、そそくさと二三枚の半折ものの巻いたのを持ち出した。「反古だよ、書きぞこないだが、どうだね。」
ひろげて見ると、どれもどれも、自作の舞踊劇の歌詞を自讃した「戯画」なのである。寒山拾得、一休禅師、鐘馗その他であった。」

この時いただいたものは登志夫が生前演劇博物館に寄贈しています。
この雛人形の絵は女の子たちのためにとっておいて、時々お雛様の日に出して飾っていました。繁俊と登志夫はその由来を承知していたはずですが、私たちにはこの絵は、ただ逍遥の描いたかわいいお雛様の絵、というだけで謂われはわかりませんでした。もしかすると、震災後に不死鳥の絵をくださったのと同じように、繁俊の長女のために、雛人形のかわりにこの絵をくださったのかもしれない、という推測をしたりしました。しかし、繁俊が、逍遙が描いたのは自作の舞踊劇のものばかりだったと書いているので、調べてみると、この絵は昭和5年に朝日新聞に掲載され、翌年帝国劇場で上演された『変化雛』という舞踊の絵で、書かれた文は作品の詞章だということがわかりました。この詞章がひどく読みづらく東大、中文大学院生の三村一貴さんの助けを借りて、解読できました。
さらに松竹大谷図書館で、この時の公演筋書を見せてもらいました。一番目は『シラノ・ド・ベルジュラック』、中幕が岡本綺堂『心中浪華春』、三番目が円朝の落語を木村錦花が脚色し、川尻清譚が監督した『引窓与兵衛』、そして大喜利が''坪内博士作''と書かれた『変化雛』でした。昭和6年2月1日初日、四時開演で、一日一回公演でした。
繁俊と柳田泉共著『坪内逍遙』には『変化雛』についてこのように書かれています。 

「その翌年の昭和五年には、正月早々に『変化雛』『鶴の栄』の二篇が発表された。
この両作は、旧約を果たすがために執筆されたものだった。市川猿之助が『蟲』その他を上演して新舞踊運動に熱中していた頃、逍遙に新作を請うたことがあったので、そのために前者を、また杵屋栄蔵にも何かの折に新曲を懇望されたので、その主宰する長唄鶴命会に因んで後者を、それぞれ稿債を果たすの意味で執筆されたものであった。
『変化雛』は三場からなる常磐津物。一対の紙雛が、鼠の荒れ狂うに乗じて、金屏風に囲まれた屋敷を抜け出し、道行としゃれる。やがて大震災復興後の大東京不忍池畔に出て、装束を脱ぐと、野球ユニフォーム姿のモダンボーイと、断髪のモダンガールとになり、早稲田大学の野球の応援歌や、ヂャズにつれて踊るといった趣向のもの。『花から花へ夜もすがら、また日もすがらひらひらと、蝶は香りを蜂は蜜、ただ享楽をおいらくの、来るてふ年を夢にだも、見ぬや遊びの果てしなく』という末尾の文句に示されているごとく、当代世相の風刺を主眼とした作意であった。
初演は発表の翌六年二月の帝国劇場に於いてであった。劇場側の都合で、常磐津と長唄の掛合に変更され、文字兵衛と杵屋栄蔵の作曲。振付は花柳寿輔。男雛には市川寿美蔵、女雛には市村家橘が扮した。その後寿美蔵は京都・東京で都合三回も上演している。」
逍遙はこれらの舞踊を作った意図と結果について、
「要するに歌舞伎の行き詰まり以上に、所作事系統の舞踊劇は行き詰ってしまっている。」
「この人ならと思う作曲者もなし、振付もなし、で、新舞踊創作に断念して、自分では筆を投げたものの、舞踊の研究は著しく進んだし、新舞踊要求の機運だけは明らかに動いているのだから、どこからか、誰かが新発展の途を開くであろうと翹望していたが、ねつからそうした趨勢も見えて来ない。で、もう自分なぞが出る幕ではないと思いながら、ほんの間の楔までに、『良寛と子守』を書き、『変化雛』を書き、上演もさせて見たが、作曲も、振付も例の如く、取ったか見たかだから、予期した通りの成績の得られよう道理はなかった。」
と言っており、満足のいく作品ではなかったようですが、今上演してもきっと斬新で、90年も前の作品とは思えません。逍遥の、時代に先駆けるセンスと意欲、ユーモアが溢れています。
可愛らしいとばかり思っていた家の雛人形がこのあと、猫や鼠とのドタバタに驚いて、蜜や花を求めて飛び出すのですね。その上衣装を脱いで野球のユニホーム姿になったり、断髪のモダンガールになってジャズを踊るなんて想像もしていませんでした。いつも戸袋に入っていた古い軸の中からいまどきの若い男女になって夜な夜な遊びに飛び出て行きそうな、楽しい妄想がふくらみます。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)