今日は黙阿弥の誕生日です

黙阿弥は文化13(1816)年2月3日生まれですから、今年は生誕205年です。繁俊は、黙阿弥伝を大正三年末に初めて公刊し、それを増訂すること三回、大正14年に集成しましたが、昭和36年に吉川弘文館から、「こんどは少し構成をかえて、その伝記的面と同時におもな作品の解説をもその中に織りこむようにこころみ」、『人物叢書 河竹黙阿弥』を出しました。この本から、「第一 生い立ち」のところを引用してみます。

「黙阿弥は、文化十三年(1816)の二月三日に江戸日本橋通二丁目、俗称式部小路に生れた。

黙阿弥の祖先については、古いところはよくわからないが、江戸へ来てからの代々が本名は吉村、屋号を越前屋、代々名は勘兵衛といった町人で、寺の過去帳には、五代前の先祖からその名があきらかに記されている。

黙阿弥の祖父にあたる三代目の勘兵衛については、少しく話が伝わっている。三代目の勘兵衛は、なかなか通な生活を送った人で、とくに食生活についてはぜいたくな趣味の持ち主であったらしい。

四代目の勘兵衛、すなわち黙阿弥の父は、祖父とはまったくちがって、真面目な堅人であった。口重で几帳面な人間であったらしい。のちに黙阿弥が仮名垣魯文に書いて送った履歴書の中に、『父勘兵衛は湯株を多く持ち、此売買を家業となす』と書いているように、湯屋の株(風呂屋の営業権)を扱っていた。これは、衰微した湯屋をひきうけて経営をたて直し、ある程度繁盛させて転売するという生業であった。

この父は不幸にして二児の母であった妻に先立たれた。下の男の子は母のあとをおってまもなく死んだが、上の清といった女の子は、ひとなみはずれて気むつかしい、疳の強い子だったので、継母に育てさせるのが可哀そうだと、しばらくは後妻を娶らずに暮らしていた。そこへ気立がやさしいというので迎えられたのが、御殿奉公も勤めたまちという女性であった。まちは夫より四つ年下の天明五年(1785)生れ、士分の出であった。

黙阿弥はこの後妻に生れた第一の男児である。幼名は芳(由)三郎と名づけられた。これは祖父の幼名の由次郎と、父の名の市三郎とを合わせたもの。順序からいえば次男であるが、長男は早くに亡くなっていたから、事実は長男であった。その下には一つ違いの金之助という男児があり、六つ下の妹があった。しかし妹は早世したので、黙阿弥の伝記には関係がない。

黙阿弥は以上のような家庭環境のもとにおかれたのだから、町人と士分の女との間に生れ、祖父の通人肌でぜいたくな江戸っ子的血液と、父の質素で堅固な気質(テムペラメント)と、母のやさしい心だてとを自然にうけついでいたと見られる。」


黙阿弥は水瓶座だったのですね。占星術だとどんな人だとされているのでしょう。たまたま、2月3日生まれ、と検索したら出てきた占いが当たっている気がしました。

「早熟で、若いうちから何をしてもいい結果になるほど運気がよく、特に運気が高いのは20代~30代にかけて、ここで仕事を運気に乗せると早い段階で出世する……」

黙阿弥は20代は作者としては我慢の時期でしたが、それでも25歳で七代目團十郎に認められ、30代はじめには立作者の仕事をし、30代後半からは小團次と提携して数々のヒット作を生み出しました。

性格については、「無邪気」かどうか謎ですが、確かに若い時は無邪気に「八笑人的生活」をしていました。「柔軟な思考、臨機応変な対応、キレモノ……。」合っている気がします。



河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)