登志夫の英語

登志夫が英語の勉強を始めたのは、中学からでした。自分が、現地で生活することも困らない程度に、さらには講義や海外公演での現地の記者質疑応答などの折にも活かすことができるようになったのは、中学の時の英語の先生のおかげだと言っていました。

中学時代の登志夫です。下は入学式、登志夫は最前列1番右です。

折に触れ、恩師の小野先生のことを書いていました。これは昭和52年に「中学教育」という出版物に掲載された文章です。

中学二年のときの英語の宿題で、自分が選んだ作品を英訳して発表した際、先生は間違えた個所があっても褒めてくれたそうです。その時に先生が言った言葉は、

「自分で英語にしたんだな。いや、さっきmuch moneyというべきところをmany money といったからすぐ分った。しかし、それでいいんだ。少しぐらい間違ったって構わん。自分で作って堂々とやる勇気がなくちゃ英語は上達せん。ほかの勉強もそうだ。みんなも、そうだぞ」。

登志夫はこの先生のことについて、

「小野先生は発音記号からはじめ、テキストは先生が教える模範例文や諺と共に必ず暗誦させ、英々辞典を引かせるという、きびしいこわい先生であった。ばかりでなく私のクラス~成城高等学校尋常科(中学部)竹組~の担任でもあった。

クラス一の虚弱児だった私に水泳を教え、野球を教えてはげまして下さったのも、この先生。いま、日本の文化やら演劇やらを、諸外国で曲がりなりにも英語で話せるのも先生のおかげだ。いや、心身ともに私が今日在ること自体、この小野先生のおかげとさえ、思っている」。

写真は、中学1年の海水浴で。


また、別の機会にも小野先生の事に触れ、

「英語で考えよ、まちがってもいいから自分の英語で話せ、日記や手紙をかけ、とおしえらえたのも小野先生であった。

語学は若いうち、それも第一歩こそ肝腎だ。それには実力はもちろん、教育に情熱をかけたよき先生の存在が、絶対であるとおもう。先生の個人的な力と魅力。それこそマスプロマスコミ、器機万能の現代なればこそ、いっそうたいせつなのではないだろうか」。

登志夫は、自分の手帳にも、英単語や英文、時にはドイツ語の単語を混ぜて記載しています。いつも頭のどこかで英語にして考える癖がついていたようでした。そして、この先生に教わった、まちがったって堂々と英語を話す勇気が大切だということは信条となり、仕事での大きな場面でも、常に思い出していたのだと思われます。

小野嘉寿男先生は、戦後NHKの高校英語講座でも知られ、成城大学教授をされました。厳しくても、いい先生と出会えて登志夫は幸せでしたが、これも受け手の心がけによるのでしょう。登志夫は、娘たちが英語を教えて、というと、発音記号から始めるので、みんなついていけませんでした。しかし、三女は日本よりアメリカが合っていたようで、アメリカの大学に行き、いまも外資系で英語を使って仕事をしています。この人についても、間違っても堂々とやろうというところが登志夫似で、上達させたようです。

昭和41年、左から2番目が小野先生。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)