登志夫32歳、はじめてのアメリカ①

登志夫は、生涯に何度もアメリカに行きましたが、最初に行ったのは、早稲田大学の講師だった32歳の時です。登志夫は東大の物理学科を卒業してから早稲田に入り、大学院を出て、そのあと講師になりました。そこでハーバード大学へ研究留学する機会を与えられ、1年滞在しました。登志夫は、この時の経験について、のちに早稲田の栄誉フェローに選ばれた時(87歳くらいのとき)のスピーチで、「学校の図書館など一度も行かず、毎日芝居を見て過ごした。この経験をさせてくれた早稲田大学にとても感謝している」と言っていました。まだ、アメリカはじめ、海外に行く人など少ない時代。羽田空港への見送りは繁俊やみつはじめ、70人以上。この記念写真の中でまさかひとりしか出発しないなんて驚きです。

戦後12年、1ドル=360円、トルーマン大統領の時代です。この時のことを、登志夫の「酒は道づれ」から引用します。

「昭和32(1957)年夏、文学部の推薦と英会話合格により、早大からはじめてのハーバード・燕京(エンチン)研究所招聘留学生として、単身アメリカへ渡った。戦前早くにハーバード大学と北京の燕京大学が協力してつくった、東洋学のメッカである。往復旅費と滞在費全額は同研究所の支給。三年後に正式に別れる妻とは、すでに別居していた。

飛行機はまだプロペラで、下宿を探すにも日本人だと分ると『ジャップ!』と舌打ちし、『アイム、ソーリー』と断られることもある、そんな時代だったが、全般には自由で居心地がよかった。ただ月額三百ドルは、旅行や観劇や本代などを考えるとかなりきびしい。で、安アパートを物色して下宿、自炊した。

主人は肉屋。日本人は私だけ。ほかは韓国人、亡命ハンガリー青年、アメリカ人ではむかしミュージックホールでピアノを弾いていたという落魄の老音楽師、パン屋のトラックの運転手だという酒飲みのならず者……など、種々様々な独身男の雑居アパートだった。

食堂、炊事場は共同で賑やかなかわり、冷蔵庫も一緒なのでパンがなくなった、バターを盗まれたと悶着が絶えない。犯人はいつも運転手らしかった。が、彼は根がお人好しで仲良くなり、外国人は近づくなといわれるボストン裏町の、ストリップ小屋や安酒場に連れていってくれたりした。

とにかく郷に入れば郷に従う主義なので、外ではもっぱら安くてまずい洋食?か中華、自炊には主として安くて無駄の出ない鶏を用いた。留学末期ごろにはまぐろのとろが、日本からみたら只のような値段でスーパーに出はじめた。鮎川義介の子息とかがアメリカ人に生で食わせるべく、大西洋のまぐろを買い占めたという噂を耳にしたが、真偽のほどは知らない。

とにかく自炊は安いし、根が嫌いでないとみえて、苦にならなかった。

こうして『作る人』としてのキャリアを積むこと一年。ヨーロッパからギリシャ、エジプト、香港と独り旅して帰国したのが、翌年の十一月であった。」

この時にいろんなところを回って帰国し、「ヨーロッパ歴史旅情」という本にまとめています(昨年5月20日に当blogでご紹介しました)。この本を読んでも、登志夫が「自分ひとりならなんとでもなる」という気持ちで、実際旅先で初対面の人と意気投合したり、その人について行ったり、という経験を多くしていることがわかります。英会話の上達というのは、その人の性格によるところもとても大きいと思います。いくら文法や発音記号を知っていても、話をしないことには英会話にはなりませんから。登志夫はその点、好奇心が強く、現地でうまい酒を飲みに行きたいという気持ちも強かったので、無口に黙っているわけにはいかなかったのでしょう。

アメリカで体得した英語はのちに海外公演に同行するきっかけにもなり、商業演劇の本場で見まくった数々の舞台は、のちの自身の研究の大きな柱にもなりました。

※写真は、登志夫の渡米を見送る繁俊夫婦と、登志夫の姉の家族。羽田空港で。

河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)