今日は黙阿弥の命日です。
黙阿弥は明治26年1月22日になくなりました。今年で128年です。登志夫が亡くなった2013年が、黙阿弥没後120年にあたりましたので、登志夫と黙阿弥は、ちょうど120年違いで亡くなり、登志夫は今年が没後8年目ということになります。覚えやすい数字です。
登志夫の著書「黙阿弥」から、黙阿弥の終焉を引用します。
「終焉
『北風すこし曇り、天気、今朝左りの手しびれ足もだるき故木脇氏へかかる。中気下地故エレキをかけて貰い、丸薬を貰ひ帰る』
十二月二十六日の日記に、黙阿弥はこう書いている。
この一週間ほど、先の代から親戚附合いの仲の、日本橋本両替町の田中佐次兵衛方へ通っていた。田中はやがて糸女の養嗣子繁俊の嫁になるみつ(私の亡母)の実家だが、このころ家督相続をめぐってもめごとがあり、調停をたのまれて出向いていたのだった。
いつも黙阿弥が行くとふしぎに丸くおさまるからである。が、その帰り道でころんだのが、発病のきっかけだった。いや、もうしびれがはじまっていて、ころんだのかもしれない。
しかしたいしたことはなく、起居もいつもどおりで、日記も大晦日までつけている。
『卅一日 北風、天気、風なく寒さゆるむ、極おだやかなり。(尾上)栄次郎より使来る。玉子持参。植忠花持参、払渡す。鳥越中村へ玉子折持たせやる。(略)』
歳暮や諸払いまで、あいかわらず事務的で克明。だが、日記はこれが最後となる。
無事に年を越し、元日、二日は変りなく、家族と雑煮を祝った。元日には例年のように、自由なほうの右手で遺言状も書いた。
毎年、年があけると、まずはめでたかったといって、前のを破棄して遺言を新しく書きあらためる~これを五十一歳の正月から二十八年間、つづけてきたのだった。
脳溢血の症状がはっきりし、床についたのは三日の朝だった。以後の経過は糸女の日記によって、うかがわれる。
『三日、朝食後左の手先動かずなる。医師の診断を受けて安臥し、左の手にエレキをかける』
四日には、家族のほか面会謝絶を命じられた。が、言葉も頭も異常なく、
『寝るのは大儀なものだ、二番目物の腹案ができたよ』
といって、糸女に新狂言の筋を話して書きとめさせたりしている。
八日には体温が三十八度を越した。午後二時ごろ、『去年の暮より卒中を病みて』として、辞世の句を詠んだ。
花の咲く春をば待ちしかひもなく
片枝よりして枯れし老梅
十日はきげんよく、『雀踊り』の替唄をつくって、糸女に口述筆記させた。
千代の初めの一月に、左の手足が引つりて、ちぢめをるのが初発ぢやへ。白鶩(しろあひる)白矮鶏(ちゃぼ)などをすすめ贈る連中が、『ヲヲサテ合点ぢや、アリヤサ、コリヤサ、卒中でせへ、よいよい』
十三日には、
『ただ寝ているのはまことに退屈だ、寝言を考えた』
といって、また糸女に、浄瑠璃ふうの戯文を口述、筆記させた。雀百までとか、作詞作劇まさに習い性となる。
日を重ね訪ひ来る人もあふみ路や、逢ふ事ならぬ床の山、今は片身もきかざれば、寝返りさへもなら坂や、児手柏の二面、こぞの暮より病まぬ前は、都の花を見んものと思ひし念も月ケ瀬の、梅さへ今は後れたり、及ばぬ事と思ひ寝に、葡萄酒の酔めぐり来て、うつらうつらと心よく波にただよふ鷗の如くいつか眠りに筑波山、このもかのもの床ずれを厭ふ蒲団の紫やかすみたなびくしののめを、待つに嬉しき明がらす、朝日の影を見るにつけ、又今日の日をいかにせん、苦労のたえぬ事なりし。
二十一日の朝、
『ひとつ忘れたことがある。歌舞伎座を見物して、あちこちへやるはずの年玉や礼金などを贈らなかった』
と気にかけるので、使いを出し、帰ってきたのをみて安心した様子だった。
糸女の日記が黙阿弥の死を告げるのは、その翌日である。
『午前九時頃に、『扨今日こそは別るべし、午後までは保つまじ』と告げ、『一葉の遺言書を認め置きたれば、骨寄せの日に、親戚門弟の集まれる所にて開くべし』とて、あとは静かに念仏を唱ふるのみ。午後四時少し過ぐる頃眠るが如くに歿しぬ』
明治二十六年(1893)一月二十二日午後四時、本所区南二葉町三十一番地の閑居において、最後の狂言作者河竹黙阿弥は、かぞえて七十八歳の生涯を閉じた。
江戸に生れ江戸に育ちながら、幕末から明治へという動乱の時代を生き抜いた黙阿弥は、『黙』の字の謎も黒雪山人の正体も、温容洒脱の孤影に秘めたまま、何事もなかったように安らかに逝ったのである。
この日は日曜日で、空っ風の吹く寒い日だったという。そういえば、黙阿弥は風が大きらいだった。
黙阿弥が家族に見とられて息をひきとったころ、その風にあおられて江戸歌舞伎の灯がもうひとつ、吹き消されていた。
浅草の鳥越座~旧中村座~が、西鳥越町から出た火で類焼したのだ。
寛永元年に猿若座の名で櫓をあげてから二百七十年、江戸最古の劇場はそれきり、ついに復興しなかった。
黙阿弥の死、中村座の滅亡~この日は歌舞伎史にみる“大江戸最後の灯”であった。
歌舞伎座ではこの日、黙阿弥を慕いつづけた菊五郎が、絶筆の常磐津所作事『奴凧廓春風』を、万感をこめて踊っていた。
黙阿弥は形の上では引退したが、『黙』の一字にこめてひそかに期したとおり、現役作者としての生を全うしたのである」
以上、登志夫の「黙阿弥」からの引用でした。最後に床で作っていた浄瑠璃も、見事な七五調でうまい掛詞が使われていてユーモアがあり、さすがです。黙阿弥も、繁俊も、登志夫も、最後まで頭がしっかり、仕事のことを考え理性的でしたが、黙阿弥はとくに、酸素の装置だの痛み止めだの近代医療を用いていなかったからか、朦朧とした時間も少なかったようです。
黙阿弥の死への準備や、死に際などは、登志夫が常に理想としていたものでした。
写真は、位牌。右から黙阿弥、その妻の琴、長女糸、次女島、もうひとりは十三歳でなくなった三女ますの戒名です。黙阿弥の娘は誰も結婚せず、こうして仲良く一緒の位牌にいるのです。
0コメント