繁俊の青春③ 繁俊から逍遙への手紙


明治43年、繁俊満21歳が逍遥へ出した一通の手紙です。

これは逍遥が保存していて、亡くなった後に繁俊に返された手紙だと思われます。逗子から東京に移り住む時に、古い手紙類の中から出てきました。

前々回に、瘰癧にかかったと思い悩んだ日々の事を紹介しましたが、これはその二年半後、明治43年3月5日に逍遙に出したもので、自分の未熟さや決意や芸術や文芸への思いをつづっています。この、悩み多き、夢大きい学生の手紙に対して、逍遥がどんな返事を与えたのか大変気になりますが、震災前の事ですので、さすがに残っていません。この真面目で純真な手紙で、繁俊の人間性を信じた逍遥の気持ちがわかります。それはなくなるまで繁俊を信頼する種になったのではないかと思います。

明治40年頃河竹家から逍遥に養嗣子の相談が持ち込まれました。逍遥はずいぶん悩んで教え子ふたりに絞りましたが、いろいろな条件の上にこの手紙が逍遥の心の中にあって、繁俊を推挙する確信になったのかもしれません。

「候文」で旧仮名遣いでちょっと読みにくく、御覧の通り、長いのであちこち削ってのご紹介です。当時の大学生の手紙の言葉遣いや、尊敬する師、自分の家族への態度や思いが新鮮です。

※写真は明治43年、満21歳の繁俊。


「謹んで一筆申し上げます。

私はこの三週間ばかり腫れ物のため病床にありましたために学校へも行けずにおりましたが、もはや二、三日中には家庭にも等しき研究所に参られる事と楽しみにしております。

さて、大変失礼ですが、過去の自己と、将来踏みてみたき道について信じる先生の御前に申し上げてご教示を賜りたく存じます。

第一はこの一年以来苦しんだ人間の改造についてです。私は三年前自分から瘰癧(るいれき)ができていると思い込みそれから半年の間は、三余年の間には死ぬものと一人さだめ、苦しみました。

その頃自然主義の潮流を眼前に、死を捉えて焦慮した私は、何の知るところもなく歴史を無視し、経験を無視し、実に言うに忍べぬほどの軽率の考えに満たされておりました。

その後、死病とのみ思い詰めたこの病気が一時の腫漲と判明し頭も常道に帰りました。

それでもなお注入されたせまい思想を皮相的に受け入れた私は一昨年中は全く価値のない頭で過ごしました。

昨年頃より、これは自分の誠心から出た考えでないと気づき始めて、静かに人間の一生と歴史の上から公平に見ると、自分は過渡期にあり実に貧弱も極まれるものと感づき、昨の日の滑稽なる夢を醒ます必要を知りました。

社会は自己の試金石なりと痛切に感じたのは、悲しい経験によります。

一昨来、休暇に帰った折はいつもと違って常に頭の具合が悪いとか神経衰弱のようであるとか申して、非常にだらしのない生活を送り、毎日毎日家の中で雑読にふけり、ろくにのどかな会話もせず、自分も楽しくなかったので家中の皆も妙に思ったことでした。

怒声など出したことのない私ですので、言葉少なに極端なことなどを口走り、兄や弟もおかしく思っておりました。

けれど一番悲しかったのは無口な父が一言だけ母に向かって「少し狂人じみている」と申された事で、これが私には印銘深く、悔恨やるかたなく、帰京早々長い手紙を書いたほどです。

昨年の休暇は頭を一掃いたしかけました時でしたので、充分百姓の気分にもなりたきものと希望して参りましたので、到着早々から温もりし家庭の人となった心地がして、いたって楽しく日々を送り、父母も喜び兄弟とともに毎夕々々昔の通りに団らんいたしました。

実に自分も満足なれば他の人とも美しく楽しき調和を得て気分も清々といたし、この心境こそ芸術の境とも言うべきかと感じました。

陰気世界より朗らかなる世界に入った心地がしてなんとなく喜ばしく思いました。

この時過去の自己が全く軽浮な狭い個人主義にとらわれていたことを悟りました。

これはもちろん私の罪で自然主義の罪ではありません。自然主義を全体の一部として今もって賛成ですが、自責に耐えないのは自己に信念なく、皮相のみに占領された己れの浅薄さです。

省みれば自分の品性と言うが如き方面が忘れ去られていて何も獲得したもののないのを知って、一人そのふがいなさを嘆きました。

かく学問もなく、人としての価値もないことになり、ようやく何事も我が心の中より考えてみるようになりました。

一昨日も久しぶりに論語を取り出し、どのくらい解釈力がついたか試しましたが、なかなか判然とするのは稀で今更らしくそのスケールの宏荘さに驚き入りました。

学而不思則罔

(注、学びて思わざればすなわちくらし)

思而不学則殆

(注、思いて学ばざればすなわち独断に陥る)

の句にいたり、ことに後者が心の中のあるものをいい当てている様に感じられ、言い古した句ですが、切実に覚えます。

先生のお言葉の「華やかながら無謀な討ち死」もこの事かと思われますが、一冊の書物でも数多の素養があってこそ先生のなさるような、クリエイティビティーもなし得るものとおもわれ、我が幼稚の極みなるを感じます。

私は真に準備時代、修養時代であります。

私自身は赤児のつもりでこれから新しい頭を持って、人間修行と書物の勉強に伴う、洞察力の養成にこの時を費やす事と固く決心いたしました。

もしこの赤児が二十年間劇の研究をなし、十分縁の下の力持ちとなる事を得て、潜努力を蓄えいわゆる底光りあるものをなし得たら、つまりその時赤児は成育したと言えるでしょう。願わくば空想に終わらぬよう祈っております。

大変長くなりましたが便箋三枚ほどが、巻紙にするとだいぶかさ張り申し訳なく存じますが、今一項だけ書き足させてください。

それは文学に対する根本疑で、文学は人生の研究觀照に発するものですが、その目的が純粋に人生の研究のみにあるのか分かりません。

私を文学の専門家と仮定して、現に私は気分の悪い時、または変調をきたした時などに夏目さんの作を読んで気分が一洗されると言う経験があります。

この場合娯楽として読んだこととなりはしないかと思われます。しかし夏目先生の態度はやはりシリアス、余裕はあれど不真面目な態度とは思われません。

で、私の頭より文芸の目的を見ると、文芸はその個人が解釈する人生を美化するとともに、(すなわち個人のためになるとともに)その人を含む社会のためになる楽しみをふくんでいるのではないでしょうか。

狭い範囲にも同時にまた特殊の興味を煽る風の芸術がもしあれば、それこそ我々が目指して進むべき理想の文芸だと思います。またそれが実際に必ずできることを信じています。

文芸の根本論については、先生の御論はわざと省略されている様に思われますが、もし叶えば御高示を賜りたいと存じます。

まずは命のあらん限り、ますますその内容を豊富にし、個人性を失わぬようにして、社会を家とし、着実にたゆまず積極的な努力をすることを決心しております。

私の頭は友人も評したようにロシア風で漠然としやすく、要領を得ない箇所もあることと思われます。それに生来の悪筆にて一小人が遠慮ないことを勝手に申し述べましたが、なにとぞ御高示賜りますよう願いあげます。頓首

三月五日  市村繁俊

坪内先生

   函丈」

以上、長くなりましたが、大学生の繁俊から逍遙への熱い手紙でした。しかし、繁俊がここでいう、「劇の研究」とはシェイクスピア劇や、イプセンなどの当時の新しい劇のことであって、歌舞伎のことではありませんでした。繁俊にとっては、この手紙が幸いしたかどうかわかりませんが、その後の運命を決定づけるきっかけとなったかもしれません。(Y)

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)