繁俊の青春②早大生時代

その当時の早大は、専科が1年半、本科が3年でした。専科の1年は気持ち的に生死の間をさまよったわけですが、無事本科に進みます。著書「牛歩七十年」から引用します。
「2年になる時、明治42年の4月から坪内逍遥の主催する文芸協会に演劇研究所が開設された。
この前後は明治文学を一変させた自然主義文学の全盛時代で同時にヘンリック・イプセンを父祖とする近代劇運動が澎湃(ほうはい)と流れ込んで、いわゆる新劇運動の黎明期だった。そして多少とも劇に関心を持つものは、個人の解放を叫ぶ新しい演劇運動に魅惑されないものはなかった。僕もその渦中に巻き込まれた。
けれども物堅い家庭では正式に頼んでも許してくれないことはわかりきっていた。それで安い早大の寄宿舎に入って、学校と研究所を昼夜掛けもちをした。
午前中は朝8時から12時まで4時間、それから第二外国語が1時間、それから5時まで4時間。飛ぶようにして寄宿舎に戻ってご飯を食べて6時までに研究所へ駆けつける。もしもお風呂に入ればそれが15分、ご飯は5、6分以内に済まさなければならなかった。研究所も2年間の過程で早大と同時に卒業になるので何か特別の教養を身に付けたくて少々無理もしたのだった。
その間にも英訳本で近代劇を読んだり自分でも脚本めいたものを書いたり翻訳もした、思えば慌ただしい2年間であった。
※写真は19歳、早大の制服を着た繁俊。

制服も作るには作ったが友人に持っていかれ質にながされて、そのままになってしまったので、卒業までの2年間くらいは和服に板草履、雨が降れば高アシダが入用だった。まだ万年筆なんてものは貴重品だったので学校では小倉の袴のひもにインク瓶を縛り付けてぶら下げていた。だから袴は大抵インクで汚れていた。(卒業式も赤インクで10センチ四方もよごれたまま出席)考えてみると栄養も衛生も構わない粗衣粗食に甘んじていたものだった。その頃の学生生活は至極素朴なもので同類がたくさんいた。
体力的にもよく続いたと思っているが、研究所へ歩いて行く時、西の空にハレー彗星がかかっていた。5メートル以上もある長い尾をひいたヤツが白く浮かび出ているのが今もありありとまぶたに残っている。それがどれだけ楽しくまた印象的だったであろうか。僕の、貧弱で慌ただしかった学生生活があの星と同時に目に浮かんでくる訳はそこにある。」

坪内逍遙の文芸協会(後期)の第一期生となった繁俊。死の恐怖から解放され、やっと思い切りやりたい勉強に打ち込むことになりました。庶民の誰もが貧しく質素で物を大切にしていた時代。交通や通信も不便で、色々なことにいまより時間も労力もかかっていたはずなのに、繁俊はよく勉強し、よく物を書き、若いなりに考え、友人とも付き合いました。この明治の終わりの時代に生きたいとは思いませんが、余計な情報に左右されることなく、密度の濃い時間が送れそうな気がします。(Y)


   


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)