繁俊の青春①私記「幻影」

繁俊は明治22 (1889)年6月、長野県飯田市から10キロ近くある山村の農家に生まれました。今から130年以上も前になります。親孝行で、兄たちを敬愛し、飯田中学時代は肉筆の同人誌を作り、「半身」のペンネームで国木田独歩をまねた自然主義的な短編をいくつも書いていました。写真は、中学3年か4年の時の繁俊です。


中学生の時に、日露戦争が起き日本が勝利しましたが、軍人や政治家になろうとは一度も思いませんでした。英語が好きだったので外交官になろうかと思い、今の一橋大学を受験しましたが失敗、もともと好きな英文を学ぼうと、著名な坪内逍遙も教えているという早稲田の高等予科の編入試験を受けて入学しました。

明治40年、繁俊満18歳、つい昨日までの山里の生活と別世界の早稲田の寄宿舎に入り、さぞや希望に燃えたことでしょう。

ところが、9月に入学した途端に無数のリンパ腺結核の瘰癧(るいれき)の発病を自覚しました。「3年余りで死ぬと思い、懊悩、激しい神経衰弱」と日記に書いた日々が始まり、その後7カ月間そう思い込んで悩みに悩むことになりました。当時結核は死の病でした。

翌明治4I年2月1日から6月24日までの間の病状の経過、そしてその時々の煩悶を綴った「幻影」と題する私記があります。500字詰め原稿用紙100枚、こよりで閉じてあります。半身というのは、「繁俊」を音読みしたハンシュンをかけています。


「去年の9月、右の頸に玉が連らなり、両鼠蹊部、左の頸など、頸には計25ある。股には数しれずある。他にもこの体にまだどれだけの潜んだ勢力があるかと思うと恐ろしい。もうこの時に僕は死を決した。

余の死は自覚せる死なり、自覚する死は世界最大の苦痛なり 

あぁ誰かこの苦悶を知ろうか」

かといって死の宣告を受けるようで医者にも行けずに、同宿の友人と酒に気を紛らす夜もありました。漱石の倫敦塔を読んで感動し、一代にはあんなものを書いてみたいと自らを奮い立たせる日もありました。

死か狂気しか考えられない絶望の日々の中で虚無になり、刹那本能主義に傾いていきます。生の目的について、

「目的はただ本能満足にありとだけしか思われない。他に思われると主張する人があるならば虚偽の人間である。似而非道学者(えせどうがくしゃ)である。

どうぞ強烈な恋をしてみたい。」

思いもかけない病苦にさいなまれたこの純情の青年が、心の拠り所として、いつも最後に戻っていくのは、故郷の父母兄弟のもとでしたが、心配をかけるから知らせるわけにはいきません。この頃の文字は小さく細く、繁俊の気持ちが見て取れます。

3月の私記には

「もう死んでも惜しくない。今死んだほうがよかろうとも思う。僕を殺したものは瘰癧で、結局肺結核で、それはすなわち体が弱かったからで(略)この体は父母から受けたので、父母はその源たる猿の子孫である。その子孫たるやもちろん猿の祖先たるアメーバに起因している。それならアメーバが自分を殺したこととなる。これでは誰を恨み何を悲しもう。またこの世の中に何かになって生まれ変わってくるだけである。こんな気がしてならぬ。(略)

人はそれを知らずにどんどん馬鹿げたことをやっている。人生は甚だ滑稽なものであろう。」

と、深く悩んだ末に、支離滅裂な精神状態になってしまったのです。

ところが、四月のある日突然回生への転機がやってきました。思い切って尋ねた医者から意外にも瘰癧ではないと告げられたのです。

瘰癧の疑いが晴れてからの私記は日毎に明るくなって、力強い筆跡に変わり、将来への自己改革を考え、休暇で故郷に帰るところで終わります。


この7カ月間の失われた青春の貴重な代償がありました。ひとつは激しい心身の苦闘に打ち勝った、打ち勝つ力があったのだという自信。もうひとつは、死との対決の中から自然に身に付いた虚無思想です。

しかし、繁俊は友人から豪放と誤解されて困惑し、「温和、穏健、沈着、誠実」をモットーにしようと思い立ちます。「虚無思想を深く脳裏に収めん。出すべからず。口に上すべからず」と、深く心の奥底にしまい込んだのです。(Y)

(登志夫著「作者の家」、繁俊著「牛歩70年」より)

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)