津野海太郎著「滑稽な巨人」

先日、平田オリザ氏が朝日新聞紙上で逍遙をおっちょこちょいのように書いていた文章があり、その中で津野海太郎著『滑稽な巨人』のことを紹介されていたので、また図書館で借りてみました。

帯に、

「彼の『成功』ではなく『失敗』こそが、今の私たちには、よくわかる……『近代文学の先駆者』というイメージを超え、新しい逍遙像を描く、傑作評伝」

とあります。「滑稽な巨人」というタイトルに、もしかすると逍遙をこきおろすような内容が多数含まれており、「閲覧注意」しなくてはいけないかと少し警戒しました。なにしろ、最近逍遙に関する色々な評伝や書簡集を読み、ますます逍遙ファンになっている自分としては、逍遙を悪く言われたくない、という気持ちが強いのです。子孫でも師弟でもなんでもないのですが、祖父が敬愛した逍遙は、祖父の子孫としてやはり親しみがあり、敬愛の対象です。

逍遙は長生きしたため、漱石や鴎外など、同時代の人たちのように憂いあるかっこいい写真ではなく、教科書などにも、丸眼鏡のお年寄りの写真が掲載されるため、その点、イメージ的にも損している気がしてなりません。もっと若い日の写真にしてあげてはどうかと思うのですが。。

しかし、津野氏は、明治18年の逍遙若き日の写真をあげ、美濃から出てきた田舎者が、通人ぶって撮影している、と滑稽さを指摘します。「当世書生気質」を刊行する頃の逍遙のこの写真を、美濃から出てきて必死に江戸の通人ぶった「鼻もちならないキザな若者であった逍遙のすがたが一枚の写真にうつしとられた」と言います。この時代のことを逍遙がのちに、「此第一期の作を回憶することが一種の苦痛となっていた」としるしていた、とも。

さらにもう一枚の写真、67歳のころ、役の行者に扮した写真をあげて、「でも、やはりこれはやりすぎだろう。(略)逍遙は公私ともに『謹厳方直な道学先生』(内田魯案『思ひ出す人々』)的側面をつよめてゆき、老いて後は、そのいかめしい八字髭とリティックな生活態度のせいで、ジャーナリズムから『文芸界の乃木大将』という異名をたてまつられるまでになっていた。このあだ名には、いくばくかの敬意とともに露骨なからかい気分がこめられていたはずだ。にもかかわらず、かれはそうした世間の目にあらがうのではなく、みずからすすんでこうしたケバケバしい写真を平気で撮らせてしまう。逍遙先生とは、どうやらそういうおかしな人物だったらしいのである。」という。

冒頭で、この二枚の写真をあげて、そのあとは逍遙の数々のエピソードとともに、その人物に迫りますが(もちろん繁俊の本からの引用も多くみられます)、逍遙ファンとして不当に感じられるような記述はあまりありませんでしたので安心しました。知らないエピソードもありましたし、面白く読みました。逆に(?)松本清張の『文豪』における逍遙観は偏った意地悪な見方だとして、すこしディスっている感じも受けました。

この本に掲載されている「役の行者」の扮装写真は大正14年に撮影したものだと書いてあるのですが、たしか繁俊への書簡集にも、行者の写真に関するものがあったな、と調べてみると、昭和9年9月15日の手紙に、

「変な記念写真 これもお笑い艸に君と山田君と生田とへ贈り候次第に候」とあります。この手紙は、このブログ「逍遙から繁俊への看護の歌」に書いた歌を贈ることも書いてあります。このことについて書簡集編集者の注によると、

「変な記念写真とあるのは、逍遙が自ら白装束の役の行者風の扮装をして撮影した写真のこと。逍遙のユーモアが伺われる。八月二十八日の(逍遙の)『日記』には『行者の擬装準備』、三十日に『午前、今井を招きて行者像式の重患記念撮影をす(ハナレにて)』とあり、熱海の今井写真館が撮影したことがわかる。」

とあるので、津野氏の本の写真のあと、また同じような扮装写真を撮っていたということになります。津野氏の写真も、やはり重い病気から治ったあとと書いてあり、昭和8年のときも、やはり病気が快復したあと。病気から生還したときには役の行者の扮装をしたくなったのでしょうか。繁俊に贈られた写真はもしかしたら繁俊の遺品の中にあるかもしれません。あったら紹介したいと思います。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)