繁俊のノート「見聞き」より①/逍遙夫人が焼いた遺文

昭和34年に出版された、繁俊の『人間坪内逍遙』の冒頭には、逍遙の三つの遺文のことが書かれています。このうち三つ目の遺文が、逍遙夫人によって焼かれてしまうのですが、この焼かれた文書について繁俊がはじめてこの本で公にしました。これを読んで松本清張がミステリアスな感じを漂わせながら『文豪』を書いたのです。清張は、繁俊はこの『人間坪内逍遙』には、まだ門弟としての遠慮があって、書かなかったこともあったのではないかと感じていたようでした。

逍遙の妻セン夫人が遊廓勤めをしていたことは、逍遙存命中から暗黙の了解であったようですが、そのことについてはセン夫人が健在の間は活字にされることはあまりなかったからでしょう。繁俊は、逍遙が亡くなって四年後、柳田泉氏との共著『坪内逍遙』を出版していますが、そこにはセン夫人の遊廓勤めのことはもちろん書かれていません。この本は900P近くある大著で、逍遙伝として、逍遙を研究する人にとっては一番の参考文献になるであろう内容です。この本を出版するにあたって、繁俊はセン夫人の確認をとって進めました。

この『坪内逍遙』の原稿の確認をするため、繁俊は昭和12年1月、熱海を訪ねて眼の悪いセン夫人と、坪内家の「大番頭」山田清作氏に読み聞かせをしました。逍遙没後二年が経っていましたが、この時に夫人が三つの遺文を明らかにしたのです。この中に、自分の死後まで開封すべからず、と英語で書かれた封書がありました。まだ誰にも開封されておらず、そこにはセン夫人の「来し方」と逍遙の「ヰタセクスアリス」が書かれていました。ふたりはそれを夜通し読んで、非常に衝撃を受けました。繁俊は、これは出版を前提に書かれているのだから、このまま夫人から預かったままにできないだろうか、と言いますが、山田氏は、あくまでも預かったのだから、すぐにお返しするべきだと主張し、繁俊は長年の大番頭で年長でもある山田氏の言葉に従うしかありませんでした。翌日繁俊は帰京、その2,3日後にセン夫人から山田氏に、「あの書いたものは、すこし拾い読みをしましたが、焼かせてもらいたい」と申し出があり、二度とこの文書を見ることはありませんでした。

逍遙は、セン夫人の過去のことで中傷され公職を辞してからは、生涯表立って賞をもらったり、「長」のつく役職につかず、華やかな場に出ることもありませんでした。夫人のことで表立って言い訳をしたり、説明をしたことはありませんでした。繁俊は、逍遙先生はこれを公にするつもりで書いたのだ、という確信を強く持ったため、自分の記憶の新しいうちにと、このノートに記しておきました。

「見聞き」と背表紙に赤字で書かれたこのノートには、大正8年から昭和22年頃までの、自分の仕事についてや、十五代目羽左衛門、真山青果、三田村鳶魚、金子馬治、朝倉文夫など、多くの人々に聞いた話や、戦時中買ったものやその値段、これから書きたいものについてなど、いろいろなことが箇条書きに書いてあります。その時々の気分で、ノートを縦に使ったり横に使ったり、新聞切り抜きやメモ書きを張り付けたりしています。自分用の覚書なのであまり読み易いものではありませんが、いずれ、すべて解読したいと思います。

さて、松本清張が実際に見たかったであろう繁俊のノートには、『人間坪内逍遙』に書かれている以上のことが書いてあったかと言えば‥‥。あるとおもえばあり、ないとおもえばなし、といった感じです。繁俊があえて書かなかったのかな、と感じる部分は、ひとつだけありました。ですが、それは繁俊がなにかを慮って書かなかったのか、または本当に書く必要がないと思ってスルーしたのかはいまとなってはわかりません。しかし、逍遙が公にするつもりだったとわかっていながら、あえて書かなかったとしたら、それは繁俊の遺志でしょうから、いまそれをここにしたためるのは遠慮しようと思います。

ノートの中身の雰囲気を、次回にお見せしたいと思います。戦時中の食べ物の値段など、苦しい中での記録ですが、かなり微細にわたり、興味深いものもあります。








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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)