逍遙作、「贈り物をことわる歌」
前回の、小満津の鰻の話ですが、逍遙の手紙の文面からもうすうす察せられる通り、
たくさんの鰻の贈り物に少なからず閉口していたようです。
ちょっとなら嬉しいが、夥しいのは困る、勿体ないではないか。逍遙くらいになると、年中いろいろなところから様々な貰い物をして、そのお礼もさることながら、無駄にしないように食べることに苦労したことでしょう。冷凍庫などない時代です。
昭和4年の「演劇博物館」4号に掲載された「贈り物をことわる歌」。この原稿が4月17日付けの繁俊宛の手紙に、追伸として書かれています。以下、逍遙の書簡より。
「追伸 別紙変な歌を若しパンフレットへお掲げならば 其前書きとして次の如き文句ありたし
坪内博士の十数年前の狂歌に
われ好かず古風な干菓子諸缶詰二番煎じ茶やくざ翻訳
頼まれて物書くはいや真似もいや外国人を拝むのもいや
形式の書簡書く役いとつらし鄭重な礼を要するは殊に
まこころの伴はぬ物貰ういや、頭を下げて物頼むいや
といふのがあつたと記憶するが、此ごろ次の如き作を消息のはしに書いて寄せられた。本館に因みの深い歌だと思ふから左に載せる。もっとも右前書きは六号活字がよろし
贈り物をことわる歌
やめてたべ手みやげふつにやめてたべ気が済まぬなら演博へたべ
われにたぶその代積みて演博の後援会を助けたまはれ
もちてありし物をだにさへ演博へ贈りにしわれぞ物をし賜ぶな
菓子たぶもくだものたぶも胃腸病む尉媼のわれらおほかたえたべず
たうべねば黴ぶ饐(す)ゆ爛(ただ)るまろうどもあはよく群れて来とも限らず
いたずらに頒(わか)つも疚(やま)し賜(た)びしものを饐えさすはいよいよ心ぐるしも
むかし好きしむなぎをだにも一月にただ二串か三串をぞたぶ
ものをたばばわが其折に乞はむものを只ちとばかりそのをりにたべ
物をたばは只かばかりとそのをりに限りて乞はむものをのみこそ
骨董もたぶな書畫器具調度をも狭きわがへには置きどころなし
一々ルビをふりあるべし
此の次の『演劇博物館』の余白へお載せ下されたし」
これは、演博の出していたパンフレットに、掲載すべしと、逍遙が作った歌。これを載せるための前文を過去の狂歌を引っ張ってきて自分で書き、タイトルの文字の大きさもちゃんと自分で指定しているところが面白い気がします。自分に過分なものをくれるくらいなら、演博に寄付をしてくれ、という願いが込められた歌がはじめの方に並んでいます。
自分の贈っている鰻について、昔好きだった鰻も、いまはひと月に、二串か三串くらいしか食べられない、という内容の歌を見て、繁俊は苦笑したことでしょう。逍遙は決して遠慮して一度に六串で十分、と言ってきたわけではなく、本心からそう言っていたのでした。
このあと、書簡集を見る限り、昭和7年9月12日に
「(前略)お土産いろいろ有りがたう ちゃうど客来大きに台所が助かりました お礼申します(後略)」
注記に、「『お土産』とは、十一日に河竹が小満津の鰻を持参したことをいう」とあります。ここでは、「夥しく」という表現がありませんので、もしかすると六串くらいにしたものかと思われます。
昭和8年1月30日には、
「(前略)不在中に奈良漬お贈りにあづかりありがたく候 お礼申し添へ候」
ここでははじめて奈良漬けが登場します。その後、ざっと見たところ、鰻へのお礼の手紙は出てきません。こちらから差し上げたばかりでなく、逍遙からも、セン夫人のお手製の甘鯛みそ漬けが度々贈られています。鯛が不漁のときには、鰹節をかわりに贈ります、と手紙には書いてあります。
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