逍遙書簡集~逍遙から繁俊へ

とても分厚い単行本です。582ページあります。この『坪内逍遙書簡集』は、全部で6巻あるのですが、そのうちの第3巻は、1冊まるごと繁俊だけへの書簡440通で成り立っています。ほかの巻には、複数の多くの方々へのものが収録されています。

この、逍遙から繁俊への手紙が演劇博物館に所蔵されていたことを、登志夫も最晩年まで知らずにおりました。知っていたら、『作者の家』に生かしたい部分もずいぶんあっただろう、と思います。登志夫はこの書簡集の末尾に以下のように寄稿しています。この本は、2013年1月の刊行ですから、登志夫が亡くなる4か月前ということになります。

「逍遙と父~父・繁俊宛の四百通の書簡に思う

逍遙が父・繁俊に宛てた書簡が四百通余もあるとは、この原稿の依頼状の文言で初めて知った。迂闊で申訳ないが、逍遙は私が十歳の時他界したので、父との関係は直接には知るところが少なかったのだ。が、いわれてみればこの頻繁な文通は、なるほどと思う。おそらく、少なくとも晩年の十年間は、逍遙がほんとに信頼して何事も託したのは、忠僕ともいうべき米山堂主人山田清作老のほかには、父だけではなかったかと思われるからである。

父もまた逍遙を、唯一無二の師と仰いで、終生畏敬していた。父はよく『抱月さんは物わかりのいいおじさんのようだったが、逍遙はいつになってもこわい先生だった』と言っていた。(略)

逍遙が早大時代や文芸協会での恩師であるばかりでなく、河竹の『家』にとっても大切な恩人だと知るのは、ずっと後のことである。

黙阿弥が晩年、西洋一辺倒の演劇改良論者から旧弊作者として避難阻害されていたとき、『読売新聞』紙上に四回にわたり激越な筆勢で擁護支援の文章を掲げた。これが機縁となり、黙阿弥没後『弁天小僧』の無断上演事件が、大審院つまり今の最高裁まで争われた際、逍遙は長文の鑑定書を書いて、黙阿弥の長女糸女を勝訴に導いたこともある。

糸女は独身で老境に入った時、養嗣子の推薦を、尊敬してやまぬ逍遙に願い出た。逍遙は文芸協会の門下生の中から、信州出の実直そうな市村繁俊を選んだ。私の父である。

学恩と家の恩、この二つに父は報いなければならなかった。が、河竹家に入ってから十二、三年は、江戸を引きずった作者の家の人となるのに必死で、黙阿弥伝や黙阿弥全集の刊行に余念なく、逍遙ないし早大との縁は切れていた。それが復活するのは大震災の直前、大正十二年四月に逍遙の推挽で、臨時講師として一年間、早大で『イプセン研究』を担当してからである。父、三十五歳。父は逍遙のイプセンの講義を、世間で名高いシェークスピア論以上に評価していたから、そのあとを継ぐのは光栄とも本望とも思ったに違いない。

晩年には逍遙の率いる児童劇運動を手つだい、続いて『逍遙選集』発刊の議に加わり、やがて報恩の最大のものとなる演劇博物館建設の実務へと、縁は深まっていく。(略)

尊敬の余りか、日常生活でも父は師の影響を受けた。たとえば睡眠薬。逍遙は不眠症でアダリンを常用していた。父は常用はしなかったが、机の引出しにこれを常備していた。

もうひとつ。山田清作の手記に、逍遙は出す手紙も返事も『電光の如く筆を走らせた』とある。父は多分にその影響を受けた。おかげで私まで、あの達筆とは天地雲泥の差だが、返事や令状をすぐせかせか書く癖だけは、幸か不幸か似てしまった……

逍遙が父に書き送った四百通の達筆な書簡も、『電光の如く』書かれたのに違いない。」


この頃の郵便事情はかなりすごかったようで、書き手は、投函翌日には届くという前提で書いています。この書簡を眺めていると、相手をきづかう言葉にはいろいろな表現方法があることに気づかされます。病弱な繁俊の妻子の調子はいかがかと度々書いてくれています。用件を大変生真面目に伝えながら、リズムがあり、時には話し言葉のようになる面白味もあり、手紙の書き方、日本語の使い方、という意味でもたいへん面白いものです。さすがは、江戸時代からの日本語を知り尽くした方の書簡です。こういう方は、書簡集が後に作られることをちゃんと意識して書かれているのでしょう。

震災前の手紙が7通ほどあり、これはなぜ焼けなかったのかは不明です。その後、昭和10年2月6日、乱れに乱れた文字の手紙を最後に、440通の逍遙からの手紙は終わります。おそらく440通のうち、400通くらいには、用事を依頼する内容が書かれています。誰々に確かめてくれとか、どこどこで何々を買って送ってほしい、医者に薬の催促をしてほしい、校正のために熱海まで来てほしい、様々な依頼です。繁俊は逍遙からの手紙やはがきが届くたびにすこし緊張したと思います。すばやく、適確に、かゆいところに手が届くように対処しなくてはならないのですから。ちょっと置いておけば、催促の手紙が届きます。

逍遙が電話をしているところを、繁俊は一度も見なかったそうです。すべてが親書。登志夫や繁俊もそうですが、いったい彼らは一生にどのくらいの文字を書いたのでしょう。飽くことなく、来る日も来る日も書いて書いて、死の床でも書くことを考えていたに違いない…この三人の共通点だと思います。




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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)