11月15日、今日は繁俊の命日です
繁俊が亡くなって今年で53年です。昭和42年11月15日に、繁俊が亡くなった時のことを、二か月後に「父の死(終焉の記)」というタイトルで登志夫が書き、翌年3月号の文藝春秋に掲載されています。
「真夜中をとうに過ぎた。きこえるのは、ストーブの湯のたぎる音だけである。
二月前のおなじ日おなじ時刻~十一月十五日未明にも、私はおなじストーブの音をきいていた。が、そのときはまだもうひとつ、きこえるものがあった。しだいに間遠く、弱まっていく父の寝息だった。
一昼夜以上も、父は昏々とねむりつづけていた。家人と看護婦を休ませ、父の床のそばに寝そべって、私は明日締切りの原稿を書いていた。時折のぞきこむ。催眠薬をのんで熟睡したときと変らない平和な顔だ。が、呼んでもゆすっても、もうこたえはない。人並みすぐれて強い肺と心臓だけが、七十八年五か月、休みなく働きつづけたあげくの最後の数時間を、生きているにすぎなかった。
限界にきて焼け切れたモーターが、慣性の法則のまま、静止に向って音もなく回りながら速度を落していく様を、私は連想していた。
物ごころついて四十年近く、つまり私のこれまでの人生で一番長く付合った人と、いま別れるんだなと、折々の記憶を反芻しながら、やせ細った腕をなでてみる。時間というものの絶対的な不可逆性~この数年、家族ぐるみ父の病いと闘いながら、来る夏、来る冬、予想し覚悟してきた瞬間が、いよいよ確実に来るのだという実感であった。(このあと、亡くなるまで十年の病気の経過を書いてありますが略)
八月ごろから衰弱はいよいよ加わった。食物もだんだん通らなくなり、わずかに生ウニか何かで少しの酒をのむのが慰めとなった。もう二年生きるんだというかと思うと、『これだけつくしてもらえば心残りはない』ともいった。直ったら一度母を修善寺あたりへ連れて行ってやりたい、そうすれば死ねる、とも……。
九月、連載していた『苔水園夜話』を自筆で書き、国立劇場の『桐一葉』筋書へ私が口述を筆記したのが、活字になった最後であろう。十月文化功労者の内報があったときはすでに重態だった。十一月六日の伝達式には私が代行した。が、その前夜、どうだ、前夜祭をやろうと、いっしょにサシミ、ウニなどで酔心を一口飲んだ~これが最後の晩餐となった。あとはリンゴジュース、重湯ぐらいで、昼夜の別もなく混沌とし、言葉もききとれなくなっていった。
そして十二日の夕、二歳半の私の娘がいつものように、『おじいちゃんいかがですか』というと、握手をして、『かわいい』とかすれた声で言って笑ってみせた。これが私の見た意識ある父の最後であった。
そして昏々とねむること一昼夜半~去年の暮、学会への道すがら、中学まで二里半歩いてかよったという道をたどって、私が撮ってきてみせたカラーの八ミリを喜んで見た父は、遠い昔のその故郷を夢みていたかもしれぬ。そして十五日朝七時半、半眼に開いていた両眼を自らしずかに閉じて、息をひきとったのである。
おれは構わん男だといいながら、決して無精ヒゲで人に会おうとしなかった父らしい、行儀のいい死であった。一度も内臓に苦痛のない、人力の限りをつくしての大往生だった。白い芝生にはいつもいとおしんでいた小綬鶏の親子が、幾羽も啼き集っていた。
十七日、出棺の時、小さな酒樽やらステッキやら、字引、原稿紙、ペン、ハサミ、それに好んで飲んだ庭の清水などを入れた棺に近親者が菊やユリの花を入れてくれる~その人々にまぎれて母が、紅葉の小枝にそえた一輪の寒つばきを入れた。自分の性格に似ているせいか、父が毎年楽しみにしていた庭の寒つばきがその朝咲いたのだった。人前でついに一滴の涙も見せなかった母の、これが亡父への心やりだったのである。」
16日 通夜。
17日 火葬。
19日 青山葬儀場にて午後1時より葬儀、2時より告別式。
21日 近親にて初七日法要、埋骨。」
上は、青山葬儀場霊前。下は告別式会葬の様子。
上は、成城自宅前に並んだお花、下は成城の自宅の庭で、孫と。この子を可愛い、と言った言葉が登志夫の聞いた繁俊の最後の声でした。次女、三女は残念ながら祖父に会えませんでした。
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